青梅街道沿いの小川家屋敷は表門に高札場が置かれる(想像図) 間口60間という壮大な敷地である。
小川新田 (白土継立の宿駅が新田開発を可能とした)
小川新田の小川という名称はこの地の開拓者の名前で、狭山丘陵の麓・岸村の名主「小川九郎兵衛」から来ている。この新田をいろいろ調べていくうちに、小川九郎兵衛の賢さが見えてきた。
先ず開拓を企画した発端である。ほぼ半世紀も前から青梅の「新町村」や五日市街道沿いの「砂川新田」は開発が始まっている。しかしこの武蔵野台地のほぼ中央部は誰も開拓するものは現れていない。
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玉川上水が承応3年(1654)に完成し、翌・明暦元年(1655)には野火止用水が開削されている。それを見てからであろう、小川九郎兵衛は明暦2年(1656)に、玉川上水から野火止用水に分水される地点以降の青梅街道沿いを開発する許可を得ている。その理由が素晴らしい。当時は江戸での漆喰の需要が高まり、青梅から石灰(白土と呼んでいたらしい)を大量に運んでいた。当時の街道はほぼ現在の「青梅街道」であるが「原江戸道」と云われるほど茅の多く茂る水の乏しい荒地の道であった。「箱根ヶ崎宿」から「田無宿」の間は20km(約五里)ほどの長丁場と云うことに目を付け、その中間地点の鎌倉街道と交差するあたりに宿継ぎを創ることを理由としている。この着眼点は岸村の小川九郎兵衛が当時すでに江戸への白土(石灰)運搬事業に精通していた有力者であったと云うことからであろう。
それに伴い玉川上水からの貴重なはずの分水(小川用水)も、「野火止用水」に続いて翌年には認められている。「小川用水」は青梅街道沿いに引き回して、均等に敷地間口10間(18m)という短冊形の敷地割りで開拓が進められる。「平等主義」に貫かれた小川新田の誕生である。
そしてその後の享保の改革(1722)を境として、大沼田新田・野中新田・鈴木新田・廻り田新田・・と一斉に開拓が進められていった。(その辺の事情は「小川村・武蔵野新田の建物」を参照のこと)
現在の「小川」という名称は西武(拝島・国分寺)線「小川」駅で見られるぐらいで、かつての小川新田は小平市小川町となっている。じつは「小平」という地名は明治22年(1889)の町村制施行からのことで、「小川村」のまわりが平らなところから「小平村」としたという。(当時は神奈川県北多摩郡小平村)
馬継場の面影は
この新田設立の目的である馬継場は、江戸と青梅を結ぶ青梅街道と南北に横断する鎌倉街道との交差点あたり(現・小川2丁目、武蔵野線「新小平駅」あたり)に設けられたのは前述の通りであるが、入村者の資格として本来の役目(馬継)のために、馬を持っていることと、その役目を負うと云うことが重要な条件であった。当然貴重な馬を持っているものは少なく、好き好んで不毛の土地に出てくるものはない。そのため小川九郎兵衛は自費で、住まいを初めとした経済的援助を与えた。そのことにより入村百姓は幕府への年貢のほかに、名主の取立分も誓約させられている。当時の名主取立は禁止されているはずであるが、この新田だけは二重取りがなされて、後の騒動の原因となっている。 (豊臣秀吉によりそれまでの中間搾取は禁止され、江戸幕府により領主と農民の一本化体制が完成)
 敷地間口30間はあろうかという大屋敷 用水路は建物の裏になる 2008.12.10 鉛筆・透明水彩
現在の「青梅街道」は、玉川上水の南側を平行に走る「五日市街道」と比べてはるかに自動車の往来が激しい街道で、主要な幹線道路となっている。そのため砂川町と比べて昔の街道の面影を見いだすのが難しい。武蔵野線「新小平駅」前の横断道路あたりが辛うじてケヤキの大木が残っていて、当時を思いをめぐらすことになる。用水路は道路に面してなくて、短冊形敷地内を横断するように廻されているので道路側からは見られない。
青梅街道
慶長8年(1603)徳川家康が、江戸の幕府を開くにおよび、同11年(1606)から開始された江戸城の大改築に重要な資材であった白土(石灰)を、その産地である現在の青梅市成木・小木曽から江戸城に運搬するために使われた道がこの青梅街道で、別名成木街道とも云われた。
この道は、起点を成木に発し、江戸城の裏木戸、半蔵門まで武蔵野の荒野30数キロメートルを一直線に切り開いてつくられたもので、途中、箱根ヶ崎・小川・田無・中野の4か所に馬継場が置かれた。
小川村の開発者小川九郎兵衛が、この地に馬継場を開設したのは明暦3年(1657)で、小川村開発の進展はこの馬継場の開設によるところが多く、正徳3年(1713)の頃には小川村に荷馬158頭が飼育されていたという記録がある。
小川町2丁目の旧小川6番組から8番組にかけて、今も道幅が広くなっているところが当時の馬継場の跡地である。
江戸城の改築は、家康・秀忠・家光の3代にわたって行われ、30年の歳月を要したと云われる。幕府御用の石灰輸送は大がかりなもので、大名行列に準じたと伝えられる。
上り下りの人馬でにぎわったこの街道も、寛政年間(1789-1801)新河岸川の水運が開けてからは、成木地方の物資は船輸送に変わるようになった。その後は、奥多摩地方の雑穀を四ッ谷・中野方面の問屋に運ぶ交通路として使用された。
今では面影はほとんどないが、かつてこの街道の両側には新田特有の屋敷が縁どり、夏はさわやかな木陰を投げかけ、冬は冷たい北風をさえぎっていたものである。
小平市教育委員会
小平郷土研究会
(「新小平駅」前に掲げられている掲示板より)
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石塔ヶ窪(せきとうがくぼ)
鎌倉街道と青梅街道が交差する所から鎌倉街道を北に100mほどいったところがこの場所である。
鎌倉街道の低地から、先の左右に伸びる青梅街道を見渡す 2008.12.10 鉛筆・透明水彩
開拓を始めるには水を確保する必要がある。そのため小川九郎兵衛が井戸を掘るために最初の一鍬を入れたのが「石塔が窪」のあたりと小平中央図書館で知り、その足でこのあたりに来てみた。石塔はすでに過去のもので姿形は見られないし地名もない。交差点から北に向かって用水路を越えると、微かに道が下ってこのあたりが低くなっている。一番低い場所を選んで最初の井戸を掘ってみたのだろう。
(以下小川家文書より引用)
「この地は原野で呑み水が無く、井戸を掘ってみたが15〜16尋(27〜29m)掘っても水が出ないので開発に行き詰まってしまい、代官今井九右衛門様に申し上げたところ、玉川上水から樋口壱尺四方の分水を下され、その水のお陰で新田開発が出来ました。」(引用終わり・口訳)
今は宅地で囲まれているが、なぜかここだけはいまだに畑地で残されている。雨が降ると泥濘んで宅地にしにくいということか。
「石塔が窪」という名前は、江戸時代末期までここに秩父青石の板碑が建っていたからだという。このへんは新田義貞の鎌倉攻めの時に戦場となった久米川の古戦場の近くで供養のための碑が建てられていたもののようだ。(参考:としょかんこどもきょうどしりょう)現在は忘れられてしまったかのように寂しい鎌倉街道だが、当時の主要な道だったことを示してくれる話である。
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名主の屋敷
昔の屋敷跡としてはっきり残っているわけではない。況んや往時の敷地間口60間(108m)という形がそのまま残っているわけではないが、注意深く観察するとそれなりに見いだすことが出来る。
かつての屋敷前の想像図 インクペン・透明水彩
 明治21年当時の略図(昭和39年小川愛次郎氏-69歳-の記憶による) 現存部分(稲荷社と玄関部分)の着色 & 私道記入(や)
この屋敷をスケッチするのはちょっと躊躇してしまう。あまりにも有名なお宅であるのに、路からは往時の屋敷を思わせる面影が全くないのだ。栄華を極めた屋敷間口60間は何分割もされていて、現在も生活されている主屋はズーッと奥の方にあり、表からはうかがい知れない佇まいなのだ。そのため深入りしないことにした。 それに換えて、貴重な屋敷の配置スケッチが残されているので、それを基に青梅街道からの景観を描いてみたのが上図である。
表大門と通用門があるが、表門の前には広場があり右手には高札が掲げられる場所もある。街道に沿っていくつかの建物が配置されているがその建物がなんであるかはわからない。しかし同じ屋敷の建物であるのは確かなことだろうから、塀の長さにしたら相当なものになることだろう。
右図は貴重な配置スケッチであるが、現状の形は敢えて描き込まず、御稲荷さん(稲荷社)へ入る私道だけを点線で加筆した。 (略図は「小平ふるさと村・旧小川家住宅玄関棟 解説小冊子による)
(小川家屋敷内の稲荷社)
小川家屋敷内にあった御稲荷さん 2008.12.10 鉛筆・透明水彩
実際にここに来るまでは見られるとは思ってなかったものである。配置略図では当然南向きに配置されていて、背後が用水路だと思っていた。それが東向きに配置されていて、朱塗りの鳥居が印象的であった。祠に向かって右手は繁った植栽を挟んで用水路である。周りから表土の排水が入り込まないように低い土手が築かれているのは昔からそうだったのだろう。それが私道を潜って小川家の敷地に流れていくが、屋敷内はうかがい知れない。水の量と透明さは美事なものであるが、まさか今でも水車小屋はないだろう。(図中の矢印は用水路の流れ)
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小川寺(しょうせんじ)
小川寺は、小川村を開発した小川九郎兵衛安次が、1656年(明暦2年)に開山したとされる臨済宗の古刹。青梅街道沿いにあり、立派な山門が堂々と建つ。小平開拓の祖たちが眠る菩提寺
2008.12.10 鉛筆・透明水彩
小川寺は350年ほど前、小平の誕生とともに開山されたといわれるが、文政2年(1819)と明治22年(1898)の2度の火災で灰燼に帰して、寺宝や創建以来の過去帳など一切を失っている。
現在の寺は大正5年に再建され、平成11年11月に山門と鐘楼の新設に伴い修行門も改装された。現在の山門は二階建ての二天門で宝暦時代(1751-1764)の旧山門の様式を受け継いでいる。
用水路は境内の南側を流れているが墓地も近くにあって、九郎兵衛本人もそこに眠っている。(享年48歳)
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小川神明宮
この神社は、開拓者小川九郎兵衛の出身地・多摩郡岸村(現武蔵村山市岸)の阿豆佐味天神社を勧請したもので、砂川新田の阿豆佐味天神社の弟分に当たるものだ。しかし正面の本殿に祀られてる神様は「天照皇大神(アマテラススメオオカミ)」で伊勢神宮の神様と同神である。参拝している年配の方に「ここは阿豆佐味天神社ですか」と尋ねても不思議な顔をされてしまった。
2008.12.10 鉛筆・透明水彩
この門前に小川用水の北側の一筋が流れている。用水路が青梅街道と境内との結界になっている。街道脇に大木の切り株が残されているが、新田の歴史を物語るものだ。中心に玉串が供えられていた。
当初(1661年)は今の場所より北の野火止用水際に社殿を建立して小川村の総氏神としたが、1681年に現在の地へ遷ったとのこと。すなわち300年を越える大木だったのだ。
未知の土地に移り住む人々の守護神として、明暦2年の開拓願いとともに神明宮勧請の願いが出され、5年後の寛文元年(1661)に、西多摩郡殿ヶ谷村(今の瑞穂町)鎮座の延喜式内社(平安時代以前からの古社)阿豆佐味天神社(アズサミノアマツカミノヤシロ)の摂社、神明ヶ谷の小高い山の中腹の神明社から分祠遷座されました。
出典:小平神明宮ホームページより
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小川一番
玉川上水の小川新田用取水口からこの辺りまで誘導されて青梅街道の南北二側に分かれて東に流れていく。 すなわち小川新田のスタート地点が小川一番。
小川一番から東側を見る 左手が北側、右手が南側、背中側は青梅に至る 2008.12.10 鉛筆・透明水彩
ここらあたりの住宅は車の騒音を避けてか、敷地の奥に配置されているが、ケヤキ並木は本来の街道筋を示している。 北側(道路反対側)に流れる用水路は埋め立てられて(暗渠か?)わからないが、南側のこの辺りは道路際を用水路が流れている。水路はあくまでも木々で覆われ、大事にされていることを感じる。
 武蔵国多摩郡御嶽山道中記、御嶽菅笠の「青梅橋」 (掲示板の図版よりCG処理・や)
ここまで来るとあと700〜800mで小川新田もおしまい。野火止用水を渡ることになる。その橋が「青梅橋」という石橋だったが、今は影も形もない。隣接して西武拝島線の「東大和市駅」があるが、以前は「青梅橋駅」としてしっかり名前を留めていた。しかし現在は街道脇の掲示板で伝えるのみである。
自然とふれあうみんなの道
青梅橋
青梅街道が野火止用水(現在暗渠になっている)と交差するところに架かっている橋を青梅橋といいました。
この図は武蔵国多摩郡御嶽山道中記、御嶽菅笠にある江戸時代の青梅橋の状況を表した木版画です。
なお、さきごろまで駅名等(西武拝島線青梅橋駅、現在は東大和市駅)に使われていました。
(青梅街道脇の掲示板より)
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Mozilla, Chrome, Opera & I.E. に対応(20150123)



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