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駿河台の中心地、聖橋と御茶ノ水駅

駿河台 (江戸時代からの文教地区)

一部、「中央通り(神田・秋葉原・上野)」から引っ越し再構成(20150427)


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広重江戸風景版画 
昌平橋-聖堂-神田川

 この場所は個人的にはあまり興味はなく、避けるつもりだった。しかし今回、いろいろ調べていくうちに貴重な歴史を知ることになった。
  ウーン! 神田は奥深い!

 湯島聖堂は1690(元禄3)年、5代将軍綱吉によって上野忍ヶ丘(上野公園あたり?)に在った林羅山の私邸内の孔子廟(大成殿)を移築したことから始まる。
また林家の学問所も当地に移転している。
 寛政の改革により1797(寛政9)年 林家の私塾(学問所)は幕府直轄学校「昌平坂学問所(別名:昌平黌・しょうへいこう)」となる。
 明治維新になると新政府直轄となり、学問所は大学校・大学に、 1871(明治4)年には文部省がこの地に置かれることで大学は廃止されるが、翌1872(明治5)年に東京師範学校(現:筑波大学)と我が国初の図書館(書籍館)が、1874(明治7)年には東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)が置かれた。

 まさにこの地は、江戸時代からの「学問所」としての伝統を受け継いだ近代教育発祥の地なのである。 現在、多くの学校がこの近辺に集まっているのは、そうした伝統が息づいているのだと理解した。

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神田川に沿った 長い坂道 と 長い土塀。  塀の中のさらに奥が「湯島聖堂」
2008.2.16 鉛筆・透明水彩

 この長い土塀の姿は湯島聖堂を特徴付けるもののようで、江戸時代の絵画を見てもこの塀が必ず描かれている。

この敷地の北側は神田明神で、その辺りが山頂に当たるところ。
この山が「神田山」と云うことだろうか? その~社との間を通る道が「中仙道」になる。

湯島聖堂の坂道
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 2013.12.09 鉛筆・透明水彩

 江戸の街から昌平橋を渡るとここからは江戸圏外。左手は神田川なのだが、現在は建物が建ち並んでいて残念ながら見ることは出来ない。江戸の時代は上っていくほどに深い谷となり、名勝地だったようで、広重の絵にも残されている。

湯島聖堂

土塀の中に入ると北に直登する石段がある。まさにこの場所はお山なのだ!と実感する。 そして境内に入ると立派な聖堂が!

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階段正面の「杏壇門(きょうだんもん)」。 戧獣や見事な水煙を上げている正吻を載せた屋根は必見
2008.3.2 鉛筆・透明水彩

 その頂上にある黒い建物が「杏壇門(きょうだんもん)」、それをくぐると広い前庭があり、正面に「大成殿(孔子廟)」がある。どちらも青黒い建物でこれが彼の大陸の孔子様の霊を祀った廟か、と異文化を感じる。

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駿河台・湯島聖堂・大成殿(孔子廟) 2014.5.11 鉛筆・透明水彩

 この廟は幾多の大火や、関東大震災にも遭い、焼失の繰り返しで現在の建物は震災後の1935(昭和10)年に再建されたもので、設計は伊東忠太による鉄筋コンクリート造平家建てである。
この青黒い外装は伊東忠太の発案であろうか? それ以前の建物は全体を朱塗りにして青緑で彩色された、まさに神社仏閣の彩色であったようである。
屋根に鎮座する青銅の「戧獣(そうじゅう)」や「正吻(せいふん)」はまさに「お化け大好き」な設計者「伊東忠太」真骨頂の装飾である。

【注釈】
戧獣(そうじゅう):中国建築で、屋根の隅棟に付けられた屋根飾り。
正吻(せいふん) :中国建築で、大棟両端に載せられる鴟尾に似た屋根飾り。

(鴟尾は猛禽の尾を模っているのに対して正吻は魚形をしている)

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聖 橋
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 2013.12.09 鉛筆・透明水彩

 この辺まで上ってくると地下鉄ばかりでなく地上を走る中央線・総武線も橋の下。

神田川沿いの坂道をさらに登っていくと、「聖橋」に出る。ここまで来ると水面は遙か下で、鉄道まで橋の下を通過しているのだ。
 江戸時代は「昌平橋」から、さらに上流に架かる「水道橋」までは橋はない。「聖橋」は1927(昭和2)年の建造で、橋の両側に「湯島聖堂」と「ニコライ堂」があったため、公募で「聖橋」と命名された。 ちなみに「昌平橋」はすぐ近くの「湯島聖堂」(昌平黌・昌平校)に因んだ由緒ある命名だ。
 川を挟んでドーム状の建物が見えるが、あれが「ニコライ堂」である。
ちょっと寄り道して立ち寄ってみよう。

かつての名勝地・聖橋から

駿河台と言われる台地が本来の姿だが、小石川あたりの水害回避のため飯田橋あたりから浅草橋に向けてバイパス水路が江戸時代に掘削された。それが現在の「神田川」である。そしてこの駿河台界隈は標高も高いので深い谷となり、江戸の名勝地としていろいろな名画が残されている。

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聖橋から川上を望む 2014.04.08 鉛筆・透明水彩

 聖橋に立つとかつての渓谷の深さを実感できる・・・?はずだが、現在は新しい「御茶ノ水駅」建設のために川は工事用足場でふさがれごった返した場所となっていた。 工事現場を越えた先の橋は「お茶の水橋」。

湯島聖堂
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聖橋から湯島聖堂を望む 2014.04.08 鉛筆・透明水彩

 聖橋の南端から北を見れば湯島聖堂が目の前に。江戸時代はその前の坂道「中山道」を上りながら左手に渓谷の景色を目にすることとなる。この聖堂の北に「神田明神」・「湯島神社」と連なり、江戸を最後にする場所だ。 真下は中央線・総武線の列車がひっきりなしに通過する騒々しい停車場。

ニコライ聖堂
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聖橋からニコライ聖堂を望む 2014.04.08 鉛筆・透明水彩

  片や、南側に目を向けると駿河台を登ってくる車・車・車・・・それを見守るかのように鎮座しているのが「ニコライ聖堂」・・・この橋は二つの「聖堂」を取り持つ橋「聖橋」だったんだね・・・・
詳しくはこちらからどうぞ。

ニコライ堂

東京に住んでいながらこの建物に対峙するのはじつは初めてである。
この高台(駿河台)で、竣工当時の高層にしてユニークな外観は、東京中のランドマークだったことだろう。 そして現在の環境は高い建物に取り囲まれ、街に埋もれたものとなってはいるのだが、これだけの本格的なビザンチン建築を目の前にすれば誰でも圧倒される・・・と思う。

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 聖橋から望むニコライ堂(左) と ニコライ堂正面(右)

2008.3.2 鉛筆・透明水彩

入口に張られていた説明文を引用する

昭和37年6月21日文部省指定 重要文化財
東京復活大聖堂(通称:ニコライ堂)
この聖堂は1884(明治17)年3月に起工し工期7年を以て1891(明治24)年2月完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は英国人コンドル博士です。
頂上までの高さ:35メートル 建坪:318坪 壁厚:1メートル〜1.63メートル
日本最大のビザンチン式建造物として知られております。

日本ハリスト正教会教団

この説明でまず目を惹いたのは設計者がコンドルではなかったということだ。一般的に云われている?のかは分からないが、設計者はコンドルで通っている。イギリス本流の建築を学んで、お雇い外国人として来日した若き青年が、西洋建築様式をすべてマスターしているとは到底思えないので理解できることである。

震災前(左)と震災後(右)の姿
(鐘塔の比較スケッチ)

 竣工当時の写真をwebで探してみたら、屋根に関しては現在の形とはかなり違っていた。鐘塔部分に関しては現在よりもかなり高いのだ。そして関東大震災では崩壊してしまっている。この鐘塔は私にはコンドルの母国、英国国教会のものとしか思えないのだが・・・。設計者のシチュールポフの経歴を調べてみると建築家というより彫刻家としての作家の姿が見えてくる。すなわち綿密な建築図面ではなく建築様式の深い理解によるドローイングを主に描いて、実際の図面作製はコンドルが担当、その時に彼なりに修正が多々成されたことであろう。あえて云えば基本設計がシチュールポフ、実施設計がコンドルということであろうか? しかし現在ではその当時の原図は残っておらず、原案と実施案との比較なんて空想の域でしかない。
 震災後の復興に力を注いだのが岡田信一郎で、1930(昭和5)年まさに50代の岡田大活躍の時期に、さらに洗練された形で改修されたと思うのだが・・・。

【ニコライ】の名称について

 ニコライは修道士名で、通例ニコライ・カサートキンと呼ぶ(本名:Ioan Dimitrovich Kasatkin)。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、日本での伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本伝道に捧げた。

引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋

決して聖ニコライを記念する聖堂ではなく、聖ニコライによりロシアの建築家ミハイル・シチュールポフに設計依頼して出来た聖堂である。「東京復活大聖堂」の名称が示すように、イエス・キリスト(イイスス・ハリスト)の復活を記念する聖堂である。ちなみに聖ニコライは正面右手に小さな祠(?とは云わないのかな・・・)「亜使徒聖ニコライ記念聖堂」として祀られている。

ご案内

 日本ハリスト正教会は、キリスト教の旧教で(東方正教会・The Orthodox Church)全世界各国にある正教会の中のひとつの独立した教会です。正教会はキリスト教の中の本家ともいうべき立場を保ち、初代からの伝承を守り今日に至っています。
 古代に存在した五つの独立教会の四つの総主教区、コンスターチノープル、エルサレム、アンティオケ、アレキサンドリアの総主教区を中心としギリシャやバルカン半島の国々、フィンランドやスラブ民族のロシア、ブルガリア、セルビア、ルーマニアなど他の国々の国教であり、現在ではヨーロッパや南北アメリカにも分布しています。
 各正教会は国単位でまとまっていますので、本山は各国の首府にあります。したがって日本正教会の本山は、当地東京復活大聖堂(ニコライ堂)です。全世界の正教会は、お互いが密接に結びつき信仰生活を分かち合うことによって、ひとつの共同体となっています。 全世界には約三億余りの集まりです。

日本ハリスト正教会教団

<東京復活大聖堂教会活動案内>掲示板より

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サイカチ坂 (皀莢坂・皀角坂)
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中央右手の樹木がサイカチの木 2014.10.25 鉛筆・透明水彩

駿河台から水道橋に下る坂に、難しい名前の付いた坂道がある。標識には「皀角坂」とあり、「サイカチ坂」と呼ぶ。
じつはこの名前を目にしたとき十年来の疑問が解けるか!?と胸が高鳴った。(ちょっとオーバーかな?)  この樹木にまつわる話(言い伝え)を聞いていたからだ。(その話は別のコーナーで)

マロニエ通り (アテネ・フランセ)
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 2014.10.25 鉛筆・透明水彩

サイカチ坂をあがるとこの通りに続く。パリの街路樹を冠したこの通りはアテネ・フランセがあるからだろうか?・・・否、その先に戦時中や学生運動、カルチェ・ラタン闘争真っただ中であっても、常に自由思想の先頭にあった学校「文化学院」があったからと想像される。校舎は今年の四月に両国に移転してしまったが、このアテネ・フランセも一時はその建物に身を寄せていたとか・・・。

旧文化学院
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 2014.11.4 鉛筆・透明水彩

 お茶の水の文化スポットを描く〜日本一のスケッチ大会〜の最後の展示「商店会・プチ展覧会」も終わり、作品搬出のついでにマロニエ通りを歩いてみた。カタカナでマロニエというといかにも綺麗なイメージだが、中途半端な枯葉色には幻滅を感じる。(乱暴な絵の言い訳・・・)
駿河台に芸術文化を定着させたこの学校もよそに移り、校舎取り壊しも大勢の嘆願で、おもての建物のほんの一部が残されたようだ。(右部分) しかしこのロマネスク風アーチをテーマにしたような奥まった新築部分・・・更には通りの先に新築された明治大学施設に多用されていて、こんな風に文化が継承されていることがちょっと面白かった。

さらにちょっと先にはいると、こんな建物が・・・・

駿河台・山の上ホテル
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2014.4.13 鉛筆・透明水彩・パステル

現在の日本では数少ないアール・デコの建物。御茶ノ水駅前にそびえる「日本医科歯科大学病院」といい、この町周辺は歴史が一杯つまった町だ!この建物も含めてもう少しスケッチしてみたい場所だ。

神田明神

 歴史は古く、730(天平2)年に現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺に創建された。 神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。 江戸時代に、江戸城増築に伴い現在地に遷座された。 御神殿は豪華な桃山風社殿として造営されたが、1923年の関東大震災で焼失、鉄筋コンクリート造で再建された。 伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一といった近代神社建築・都市建築を代表する建築家による設計である。
1945年の東京大空襲では本殿・拝殿などは焼失を免れている。

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鳥居とその奥に見える隨神門 2008.2.16 鉛筆・透明水彩

 昌平橋から神田山を登っていく「中仙道」のルートを取ると神田明神の鳥居が右手に見えてくる。 鳥居の前は、昔からこんな茶店があったのではないかと思わせる光景である。
 

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絢爛豪華な隨神門を潜ると境内へ至る 右は車専用門

神社裏で見つけた「元萬世橋」擬宝珠高欄
2008.3.2 鉛筆・透明水彩

昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立。関東大震災で焼失して以来約50年ぶりの再建。
総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。各所に配した文様は伝統的なテーマをもとにしつつ、オリジナルなデザインを使用。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」といった大貴己命の神話をモチーフにした彫刻が飾られている。また二層目に「繋馬」の彫刻が飾られているが、この繋馬は平将門公の家紋に由来。
その後、平成10年に『平成の御造替事業』により鮮やかに塗替えられた。

<神田明神HPより>

橋の高欄は御神殿裏にひっそりと残されていた。
日露戦争の犠牲者を刻み込んだ彰忠碑を守る垣根として利用されていた。
石柱に刻まれている「元萬世橋」の文字の「元」の字は多少小さく、後で付け加えて彫られたことと思われる。文字全体のバランスをみると、少なくとも30センチは地中に埋もれていると推定できる。そのことから高欄は2段と想定し復元図を起こしてみた。予想に反して、かなり巨大な擬宝珠高欄と想像できる。
寸法は目測だが、その大きさは書込人物で想像していただきたい。

恥ずかしながらのスケッチ 

 「令和元年台風第19号」は関東地方直撃で多くの被害をもたらした。
10月12日(土)は朝から報道が騒がしい・・・気象台観測以来の最大級台風が関東地方を直撃、大雨土砂災害の警戒でテレビ・ラジオが慌ただしい。そして東京には夜中に上陸したが真夜中になるとピタリと雨も風も止み・・・なんだこれは?
台風一過の日曜日、当日は16回目を迎える《お茶の水日本一のスケッチ大会》の日。バスや地下鉄は動いていることだし、情報のない状態でも快晴の天気に誘われるように出かけた。
「日本一」とうたうスケッチ会のこと、参加者は都心の方々だけではない。当然スケッチ会は中止だ。だから恥ずかしながらここに書き残しておく。

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神田明神の楼門(随神門) 2019.10.13 鉛筆・パステル

神田明神は台風後の好天気で青空と朱色が映える。人影は少なくても外人観光客は大勢で賑わっていた。次回スケッチ会の場所はないか・・・いいところ見つけた!

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神田明神の本殿 2019.10.13 鉛筆・パステル

境内に踏み込んで驚いた!「文化交流館」というモダーン施設(平成30年12月オープン)が目についた。令和11年が創建千三百年を迎えてだと。朱色一色の境内に総ガラス張りのモダーン建築が赤面しているように感じた。(笑)

湯島天神

南から「湯島聖堂」、「神田明神」と続いてさらに北に進むと、千代田区・台東区・文京区の絡み合った地域になる。駿河台・神田山に連なる高台が、ここ「湯島天満宮」で不忍池の湿地帯にぶつかる。

左:「男坂」 │ 右:「女坂」

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2008.1.26 鉛筆・透明水彩

 「湯島天満宮」は通称「湯島天神」、旧称「湯島神社」と呼ばれ、古来より江戸・東京の代表的な天満宮である。学問の神様なので季節柄、合格祈願の参拝で賑わっていた。
正面の参道は南からだが、東から訪れるのが面白い。高台に一気に上がるための坂道が用意されている。それが左からの「男坂」、そして右から迂回して上がるのが「女坂」で、登り切ったところが落ち合い場所か。 梅の時期にはちょっと早すぎた。

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神田駿河台

先日行われた「お茶の水・日本一のスケッチ大会」に参加してみた。その時のスケッチです。

10月12日(日) お茶の水の文化スポットを描く〜日本一のスケッチ大会〜に、約1,000人の参加者(主催者発表)が集まりました。 スケッチ大会で描かれた作品は通りに一堂に並び、巨大ギャラリーが突如出現!
青空合評会も催され楽しいスケッチ会でした。 その多くの参加者作品の中から選抜された作品で開催されるのが「文化と歴史の街・お茶の水を描く」100人展。 (最終46人) [(や)も選抜され、出品・参加しました]

湯島聖堂・昌平坂
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 2014.10.12 鉛筆・パステル・透明水彩

 時間を掛けてじっくり描く方多数の参加なので、ちょっと大きい画用紙(四つ切り)で描いてみた。ふだん描かないサイズなので往生しっぱなしで段々絵の勢いはなくなるわ〜汚れてくるわ〜いい勉強をしました。 その後の”「文化と歴史の街・お茶の水を描く」100人展”に出展するため、額装したものははこちら「湯島聖堂・昌平坂」でご覧下さい。

 100人展の中から二十数人を表彰(10/25)、更にその中から12人が選抜され「商店会・プチ展覧会」で展示されることになりました。(や)の作品も一週間限りで展示されました。


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