
![]() 上野池之端の不忍池から彗星のように現れた時代の記憶が一つ消えた Photo & CG : (や) 中央通り(神田・秋葉原・上野)![]() 江戸は世界的にも大きな海上交通都市 <案内リスト>前編より続く 都知事選・参院選等で大いに賑わせていた建築家・黒川紀章が先日(2007年10月12日)亡くなった。 彼は1960年代に日本で興ったメタボリズム運動の中心的メンバーで、とりわけ未来志向の建築家として菊竹請訓と共に活躍した人物である。 ・・・・・ 中央通りは、日曜祭日となると歩行者天国として車道を歩行者に開放している。(初期の頃は全区間解放されていたと記憶するが現在は主要部のみであるが・・) ・・・・・ 車道の真ん中を歩くと、高層化した建物も全体が見え、普段気が付かない街が発見できる。 繁華街・商業地には車はやっぱり似合わない!
今川橋<ここから先は町人町>![]() 今川橋往来之図 今では橋も川もないのだが、「昭和25年(1950)、堀は埋め立てられ、橋も撤去され、360年のその歴史を閉じた」と立て札にある。この堀(神田堀・別名神田八丁堀・龍閑川)が中央区と千代田区の境界になるのだが、神田の職人町と日本橋の商人町の境でもあり、江戸市中の商品流通の中枢としての役割が大きく、この橋の周辺では陶磁器を商う商家が建ち並び、大いに栄えていたとのこと。 なお、焼き菓子「今川焼」はこの地が発祥から。 神田須田町<数奇の歴史を感じる町>![]() 安政3年当時の絵地図に現在の白地図を重ねてみた 徳川の江戸入城以前の神田川周辺は須田村と呼ばれていた農村だったが、江戸時代初期から神田川を渡って中山道に通ずる要地であるため、筋違御門が設けられていた。その前の広場は壮大なもので、何に使われていたのだろうか? 大名行列の整列にでも使われたということだろうか。(参考) ・・・・・ 明治になり、鉄道が乗り入れてくると、船積み品が列車に積み替えられ、一大ターミナルとなる。 ・・・・・ そしてついに起きた関東大震で状況は一変する。帝都復興事業で「靖国通り」と「中央通り」が整備されると、この主要道路の交差点が路面電車の行き交う交通の要衝となり、栄華を極めた水上交通は見捨てられてしまった。かつての見付御門(筋違御門)広場、筋違橋は遠い昔、と忘れ去されてしまうことになる。そして神田須田町は神田明神のお祭りで当時の賑わいを偲ぶだけになってしまった。 参考:【街頭に立つ千代田区町名由来板】
須田町の戦前の建物 神田須田町迄来ると、広々とした交差点に向かって小さくても古風な建物が堂々と建っている。まさにこの交差点のランドマークで、1935(昭和10)年に建てられた大阪の羅紗問屋の東京支店「鷹岡ビル」である。 ![]() 左:山本歯科医院 │右:鷹岡K.K.ビル 2008.1.20 鉛筆・透明水彩 この建物の裏一帯の地域が「須田町一丁目」で、先の「東京大空襲」では奇跡的に被害を受けなかった地域である。関東大震災以降の町並みが辛うじて残っているユニークな町なのである。 靖国通りと中央通りが神田川に突き当たる辺りは軸線が振れることにより、三角の地形が発生する。関東大震災直後の当時の帝都復興計画案では、その辺りを広い公園にする案があったが、まさにこの地域一帯のことなのである。 関東大震災の復興では土地区画整理がおこなわれ、街路が拡幅された。そのため各店舗は敷地の提供を強いられ、以前と同じような軒の出は不可能となった。必然的に庇の出の少ない、不燃材で覆った外装の建物が主流となり、いわゆる「看板建築」の誕生である。 ![]() 左:「まつや」そば店 │右:「看板建築」の一例 2008.1.20 鉛筆・透明水彩 そんな中でも昔ながらの老舗の店構えを保っている一つが「まつや」そば店である。創業明治17年と謳っているがもちろん関東大震災後の建物である。ひいきのお客も多いことなのでご存知のことかも知れないがあえて記すと、いつも混んでいるので、入口は右から、左は出口と一応のルールがある。下町のこと、当然相席が当たり前である。付け汁はもちろん下町風のすこし濃い目。 ![]() 左:「いせ源」あんこう鍋店 │右:「竹むら」おしるこ店 2008.1.26 鉛筆・透明水彩 奥に入っていくと、江戸の風情たっぷりの店があちこちに、池波正太郎の愛した町が残っている。
旧交通博物館跡須田町の神田川縁に建つこの廃屋は、昨年(2007年)まで交通博物館だった建物である。1936(昭和11)年に建てられたので、70年のおつとめであった。 ![]() 昨年閉館した交通博物館 2008.1.26 鉛筆・透明水彩 総ガラスの半円筒形階段室と全体との構成がシンプルで美しい。当時はモダニズム建築を否定するナショナリズムの強い風潮であるのにも関らず、よくここまでモダンな建物が出来たものだ。大宮に新交通博物館ができて、かつての賑わいが嘘のように、荒れ放題の状態で佇んでいる。 旧万世橋駅跡かつてここに「万世橋駅」という駅舎があった。旧交通博物館の裏側(神田川沿い)の見事なアーチの連なりはかつての駅舎の名残で、この上がプラットホームで南側に駅舎があった。 ![]() かつての万世橋駅プラットフォームを偲ばせる姿 2008.1.20 鉛筆・透明水彩 東京駅(東京中央停車場)が開業(1914(大正3)年)するまでは上野(東北線)、両国(総武線)、新橋(東海道線)、そして神田(中央線)が首都東京へ乗り入れる東西南北の大ターミナル駅だった。 ![]() 初代萬世橋駅復元図 中央線はかつては甲武鉄道と称し、新宿〜八王子間を開業(1889(明治22)年)、さらに都心まで延長して1912(明治45)年にはこの万世橋駅が始発駅であった。 ![]() 大震災後の復興した駅 その後1919(大正8)年に「神田駅」が出来ると、徐々に駅の存在感がなくなるが、関東大震災で焼失することと、復興計画で幹線道路が拡幅され、靖国通りとの交差点が広く取られることにより、今までの駅前付近は裏通りとなってしまった。さらには秋葉原駅が新設され、総武線の不通過駅ともなると、関東大震災後の改修で旧駅舎の2階部分を削られた平屋の駅舎として辛うじて残ることになる。
万世橋中央通りが神田川を越える橋が「万世橋」である。この橋とひとつ上流の橋「昌平橋」とを調べてみたら、いろいろな歴史を知ることになった。 ![]() 橋のたもとの施設はなんだろう? 江戸時代にはこの橋はなく、少し上流にある筋違御門に付属する橋(筋違橋)とその少し上流に架かる「昌平橋」があった。「中仙道」はこの昌平橋から、湯島聖堂と神田明神、そして本郷に至るルートが取られていたようである。 ![]() 元萬代橋の想像図 筋違御門は、1872(明治5)年に門が解体されて、その石垣を再使用した橋が架けられた。この橋は東京で一番古い石造の2連アーチ橋で、その形から眼鏡橋とよばれた立派な橋であったという。
眼鏡橋出現から「万世橋」と「昌平橋」との歴史は複雑なので、ここでまとめてみる。 かように、この二つの橋は世の中の変化に翻弄されたかのように、場所替えと改名を続けてきたのだ。 ← 右岸 と 左岸 → ![]() インクペンと鉛筆 CG処理 20080208 当初は、公衆便所が地下にあったのか?程度にしか思ってなかった。 現代に生きる私達は陸上の車・列車が交通手段となっている。しかしついこの間まで、水路を主役とした交通網が縦横無尽に広がっていた。そのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。 秋葉原界隈「あき は ばら」か「あき ば はら」かと以前から呼び名が気になっていて、昔から上野に住む人生の大先輩に伺ったことがある。 昔は「あきばっぱら」だよー! ・・・・とのことだった。 ![]() 安政3年当時の絵地図に現在の白地図を重ねてみた 1869(明治2)年の大火で、明治天皇の勅命により現在の秋葉原駅辺りに神社「鎮火社」が置かれた。民衆は江戸時代から信仰していた、火伏せの「秋葉大権現」に因み、秋葉(あきば)さんと呼んだ。境内は防火の目的で原っぱにされ、それが「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」「秋葉原(あきばがはら)」と呼ばれるようになった。 その当時は上野から延長された単なる貨物取扱所ではあるが、ほぼ同時期に神田川から堀割を貨物駅まで引き込んで水上交通とつなげる事により、物流の重要なターミナルとしている。鉄道の更なる延長で東京駅につながれ、総武線が両国から延長・中央線(お茶の水)との接続で、物流は鉄道中心となったがその機能は変わることはなく、さらに重要な駅となった。そして水上交通は見捨てられていくことになる。 江戸時代の絵図を見ても神田川沿いの防火空地をみると「江戸の花」といわれた火事をいかに恐れていたことかがよく分かる。 秋葉原駅、電気街口![]() 電気街口の秋葉原駅 高架鉄道の下が「秋葉原デパート」 線路の向こうは再開発された昔のヤッチャバ 「秋葉原」といえば「電気街」という連想が普通だが、そんな町になったのは戦後のことで、それ以前は秋葉原駅を中心とした乗り換えターミナルであり、物流中心の場所であった。戦後早々の駅再建に、財政難に苦しむ国鉄が打ち出した手が民活によるステーションビルの建設で、その初期にできたのが「秋葉原デパート」。 メードさんファッション![]() 秋葉原風俗のメードさんファッション。 こんな萌えスタイルの女の子が、あちこちでビラ配りしている。 昔からの「電気街」は最近は「フィギュア」だそうで、漫画に登場するキャラクター姿も出没する。世界で唯一、メイドさん姿の女の子が闊歩している町で、こんな格好の女の子達が町中にあふれていている。 彼女らの特徴は、ショッキングピンクと黒と白の衣装、白いフリフリと頭には被り物・・・が必要アイテムか 秋葉原駅、常磐新線口![]() 左ガード(山手線)を潜った先は昔ながらの「電気街」。 右ガード(総武線)奥は「つくばエクスプレス」始発新駅へ かつての神田青果市場(ヤッチャバ)と貨物操車場の跡地は、今までの秋葉原とは思えない光景に出くわす。再開発で高層ビル群の中に広い道路や広場が造られ、地下には常磐新線(つくばエクスプレス)が引き込まれている。 佐久間橋![]() 堀割は埋め戻され、公園となっている。欄干の石柱だけが歴史の証人。 さらに昭和通りの方に進んでいくと、川もないのに一対の橋の石柱に出くわす。川に相当するところがちょっと低い公園になっている。そう、これが神田川と貨物駅とを結ぶ堀割の跡である。 和泉橋防災船着場![]() 堀割が神田川と取り付くところは公園と船着き場になっている。右は昭和通りが神田川を渡る「和泉橋」 この船着き場は災害時の住民避難や救援物資の輸送のために設けられたもので、正式名称は「神田川和泉橋防災船着場」。 神田川を「和泉橋」から「万世橋」「昌平橋」と上流に向かっていくと、長いだらだら坂に出会う。 湯島聖堂![]() 広重江戸風景版画 この場所は個人的にはあまり興味はなく、避けるつもりだった。しかし今回、いろいろ調べていくうちに貴重な歴史を知ることになった。 湯島聖堂は1690(元禄3)年、5代将軍綱吉によって上野忍ヶ丘(上野公園あたり?)に在った林羅山の私邸内の孔子廟(大成殿)を移築したことから始まる。 まさにこの地は、江戸時代からの「学問所」としての伝統を受け継いだ近代教育発祥の地なのである。 現在、多くの学校がこの近辺に集まっているのは、そうした伝統が息づいているのだと理解した。 ![]() 神田川に沿った 長い坂道 と 長い土塀。 塀の中のさらに奥が「湯島聖堂」 この長い土塀の姿は湯島聖堂を特徴付けるもののようで、江戸時代の絵画を見てもこの塀が必ず描かれている。
![]() 階段正面の「杏壇門(きょうだんもん)」。 戧獣や見事な水煙を上げている正吻を載せた屋根は必見 その頂上にある黒い建物が「杏壇門(きょうだんもん)」、それをくぐると広い前庭があり、正面に「大成殿(孔子廟)」がある。どちらも青黒い建物でこれが彼の大陸の孔子様の霊を祀った廟か、と異文化を感じる。
神田川沿いの坂道をさらに登っていくと、「聖橋」に出る。ここまで来ると水面は遙か下で、鉄道まで橋の下を通過しているのだ。 ニコライ堂東京に住んでいながらこの建物に対峙するのはじつは初めてである。 ![]() 聖橋から望むニコライ堂(左) と ニコライ堂正面(右) 2008.3.2 鉛筆・透明水彩 入口に張られていた説明文を引用する
この説明でまず目を惹いたのは設計者がコンドルではなかったということだ。一般的に云われている?のかは分からないが、設計者はコンドルで通っている。イギリス本流の建築を学んで、お雇い外国人として来日した若き青年が、西洋建築様式をすべてマスターしているとは到底思えないので理解できることである。 ![]() 震災前(左)と震災後(右)の姿 竣工当時の写真をwebで探してみたら、屋根に関しては現在の形とはかなり違っていた。鐘塔部分に関しては現在よりもかなり高いのだ。そして関東大震災では崩壊してしまっている。この鐘塔は私にはコンドルの母国、英国国教会のものとしか思えないのだが・・・。設計者のシチュールポフの経歴を調べてみると建築家というより彫刻家としての作家の姿が見えてくる。すなわち綿密な建築図面ではなく建築様式の深い理解によるドローイングを主に描いて、実際の図面作製はコンドルが担当、その時に彼なりに修正が多々成されたことであろう。あえて云えば基本設計がシチュールポフ、実施設計がコンドルということであろうか? しかし現在ではその当時の原図は残っておらず、原案と実施案との比較なんて空想の域でしかない。
決して聖ニコライを記念する聖堂ではなく、聖ニコライによりロシアの建築家ミハイル・シチュールポフに設計依頼して出来た聖堂である。「東京復活大聖堂」の名称が示すように、イエス・キリスト(イイスス・ハリスト)の復活を記念する聖堂である。ちなみに聖ニコライは正面右手に小さな祠(?とは云わないのかな・・・)「亜使徒聖ニコライ記念聖堂」として祀られている。
神田明神 歴史は古く、730(天平2)年に現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺に創建された。 神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。 江戸時代に、江戸城増築に伴い現在地に遷座された。 御神殿は豪華な桃山風社殿として造営されたが、1923年の関東大震災で焼失したが、鉄筋コンクリート造で再建された。 伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一といった近代神社建築・都市建築を代表する建築家による設計である。 ![]() 鳥居と その奥に見える隨神門 2008.2.16 鉛筆・透明水彩 昌平橋から神田山を登っていく「中仙道」のルートを取ると神田明神の鳥居が右手に見えてくる。 鳥居の前は、昔からこんな茶店があったのではないかと思わせる光景である。 ![]()
湯島天神南から「湯島聖堂」、「神田明神」と続いてさらに北に進むと、千代田区・台東区・文京区の絡み合った地域になる。駿河台・神田山に連なる高台が、ここ「湯島天満宮」で不忍池の湿地帯にぶつかる。 左:「男坂」 │ 右:「女坂」 ![]() 2008.1.26 鉛筆・透明水彩 「湯島天満宮」は通称「湯島天神」、旧称「湯島神社」と呼ばれ、古来より江戸・東京の代表的な天満宮である。学問の神様なので季節柄、合格祈願の参拝で賑わっていた。 新橋の「中銀タワーカプセルビル」から始まって、ようやく到着した。 上野池之端 旧法華クラブ、ホテルCOSIMA(改 ソフィテル東京)この建物の設計者・菊竹は設計活動初期から「海上都市」を初めとして、着脱可能な住居単位をもった巨大構造物を提案してきた。その発展したかたちが、セットバックした数層のフロアーを1ユニットにして高層に積み重ねるという集合住宅として、(今から思えばかなり昔になってはしまうが)たびたび建築雑誌で発表していたのを思い出す。それがついに上野の森にホテルの姿に変えて実現したのを知って、この作家の執念を感じた。 ![]() 撤去作業中のクレーンから、かつての建物を思い浮かべて描いてみる 2007.11.4 鉛筆・透明水彩 1994年(平成6年)の竣工で、2006年12月までの命というから、たったの12年間しか存在していなかったことになる。こんな短命はなぜなのだろう? メタボリズムとは新陳代謝。 建物も変化して長寿命を保っていくものである。 今の時代の言葉に代えれば「リフォーム」「リユース」「リサイクル」の精神であろう。 見方を変えると、池之端の畔という抜群の環境の良さが命取りになったのではなかろうか。 いや、本当のところは商業建築であるが故に、投資と利潤という天秤に常時掛けられている事に耐えられなかったということだろう。 設計:菊竹清訓/菊竹清訓建築設計事務所 ・・・・・ 終着点が取り壊し中というのではあまりにも悲しいので、出発点の「旧新橋停車場」に合わせて明治期の建物を最後に付け加えることとする。 ・・・・・ 岩崎邸 撞球室ホテルCOSIMAのすぐ近くに、旧岩崎庭園(都立公園)がある。かつて、明治期を代表する岩崎家(三菱財閥)の旧宅(和館・洋館・ビリヤード場・庭園)が建っていたお屋敷である。東大のある本郷から上野にゆっくり下りてきて、不忍池を見渡したであろう高台にある。かつては現在より3倍はあったといわれる敷地だが、現在でも十分に広い敷地である。入口から遠巻きに大木の茂るお山を見上げながら緩やかな坂道を辿っていくとようやく屋敷が見えてくる。最初に眼にする建物は堂々とした洋館だが、庭に廻る先に山小屋が建っている。これが今回の主役「撞球室」である。訪ねたときは、本館は改修中で外側は覆われていて見られなかったが、そちらのほうは、あまり興味がないことで、本命はこちらの方である。 ![]() ベランダの屋根はカラー鉄板瓦棒は似合わないので、木板による大和葺のつもり この撞球室はまずログハウスなのに驚かされる。カナディアンでなく北欧の洗練されたログハウスである。本館のグロテスクとも云える洋館に対して森の中に佇む小屋として、申し分のないお膳立てなのだ。 ![]() さらに南面するベランダには注目である。屋根はカラー鉄板瓦棒葺きになっていたが本来は違っていたことだろう。しかしその木構造に施された装飾は石造建築に拘っている彼の地のものである。梁には大面取り、柱はなんとしてでも丸柱にする意気込みが感じられ、足もとの角柱に大面取り、節をもった中間部の丸柱、梁を支える持送りの刳形、みな異国の文化そのものだ。 庇の先端を薄くするために方杖と垂木にまでも刳形をつけて処理している。隅から隅まで気を入れているのだ。ビリヤードという趣味だけの部屋に、こだわわりの装飾が微笑ましい。 この建物は中心に広い部屋だけがあり、倉庫のような付属室があるのみ(上がれないので窓からの認識)。しかしすごい仕掛けが隠されていた。本館とは地下でつながっているのである。ベランダの片隅に少々突出している部分があるが、地下通路の採光・換気を兼ねた小窓があるので、そのことが判る。さらにはその建物への延長上に地下からの階段が屋内にあるので確認できる。 設計は洋館と同じく英国人建築家のジョサイア・コンドル ・・・・・ この建物を見て、この設計者ははたしてログハウスをどのくらい理解しているのか?と思った事が一つある。 ・・・・・ 【グーグル検索でその後の新情報】 金唐紙製作者(上田 尚)に関するHPで、2002年に修復した記録が見つかった。 Mozilla, Chrome, Opera & I.E. に対応(20150123) |
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