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上野池之端

上野池之端の不忍池から彗星のように現れた時代の記憶が一つ消えた Photo & CG : (や)

中央通り(神田・秋葉原・上野)


中央通りマップ 今川橋 神田須田町 旧交通博物館 旧万世橋駅 万世橋 秋葉原界隈 常磐新線 佐久間橋 防災船着場 ニコライ堂 湯島聖堂 神田明神 湯島天神 岩崎邸 旧法華クラブホテル

江戸は世界的にも大きな海上交通都市

<案内リスト>前編より続く
  1. 今川橋

  2. 神田須田町界隈

  3. 須田町の戦前の建物

  4. 旧交通博物館

  5. 旧万世橋駅

  6. 万世橋

  7. 秋葉原界隈

  8. 電気街口

  9. メードさん

  10. 常磐新線口

  11. 佐久間橋

  12. 防災船着場

  13. ニコライ堂

  14. 湯島聖堂

  15. 神田明神

  16. 湯島天満宮

  17. 旧法華クラブホテル

  18. 岩崎邸撞球室

 都知事選・参院選等で大いに賑わせていた建築家・黒川紀章が先日(2007年10月12日)亡くなった。 彼は1960年代に日本で興ったメタボリズム運動の中心的メンバーで、とりわけ未来志向の建築家として菊竹請訓と共に活躍した人物である。
 奇しくも、この二人の設計した建物が日本を代表する繁華街・商業地(新橋 ─ 銀座 ─ 神田 ─ 上野)を貫く中央通りの南北両端に位置、対峙している。そして上野の建物は昨年いっぱいで閉鎖して現在は建物の撤去中、片や新橋の建物は撤去・解体騒動が起こり、似たような運命を背負っているのはただの偶然だろうか。

・・・・・

 中央通りは、日曜祭日となると歩行者天国として車道を歩行者に開放している。(初期の頃は全区間解放されていたと記憶するが現在は主要部のみであるが・・)
 ・・・ということで、新橋から上野に向かって車道の真ん中をぶらついてみた・・・

・・・・・

車道の真ん中を歩くと、高層化した建物も全体が見え、普段気が付かない街が発見できる。

繁華街・商業地には車はやっぱり似合わない!


 

今川橋<ここから先は町人町>

今川橋往来之図

 今では橋も川もないのだが、「昭和25年(1950)、堀は埋め立てられ、橋も撤去され、360年のその歴史を閉じた」と立て札にある。この堀(神田堀・別名神田八丁堀・龍閑川)が中央区と千代田区の境界になるのだが、神田の職人町と日本橋の商人町の境でもあり、江戸市中の商品流通の中枢としての役割が大きく、この橋の周辺では陶磁器を商う商家が建ち並び、大いに栄えていたとのこと。

なお、焼き菓子「今川焼」はこの地が発祥から。

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神田須田町<数奇の歴史を感じる町>

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安政3年当時の絵地図に現在の白地図を重ねてみた

徳川の江戸入城以前の神田川周辺は須田村と呼ばれていた農村だったが、江戸時代初期から神田川を渡って中山道に通ずる要地であるため、筋違御門が設けられていた。その前の広場は壮大なもので、何に使われていたのだろうか? 大名行列の整列にでも使われたということだろうか。(参考
対岸の河岸が広く取られているのは大火の防火に備えた空地ということだろうが、水上交通の盛んな時代の大マーケットの場所でもあったのだろう。現代から見ても合理的なゾーニングだ。

・・・・・

 明治になり、鉄道が乗り入れてくると、船積み品が列車に積み替えられ、一大ターミナルとなる。

・・・・・

 そしてついに起きた関東大震で状況は一変する。帝都復興事業で「靖国通り」と「中央通り」が整備されると、この主要道路の交差点が路面電車の行き交う交通の要衝となり、栄華を極めた水上交通は見捨てられてしまった。かつての見付御門(筋違御門)広場、筋違橋は遠い昔、と忘れ去されてしまうことになる。そして神田須田町は神田明神のお祭りで当時の賑わいを偲ぶだけになってしまった。 参考:【街頭に立つ千代田区町名由来板

じつは神田須田町一丁目にはまだ面白い古い話がある。

 中山道に通ずる要地、筋違御門の内側(八つ小路)には連尺(背負子又はそれに用いる荷縄)をつくる職人が多く住んでいたところから「連尺町」、転じて「連雀町」と呼ばれていたが、1657(明暦3)年の「振袖火事」後、火除け地確保のため、一部所帯は武蔵野に代地を与えられ移住させられた。
現在の三鷹市上連雀・下連雀の由来である。

参考:千代田区町名由来板ガイド

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須田町の戦前の建物

 神田須田町迄来ると、広々とした交差点に向かって小さくても古風な建物が堂々と建っている。まさにこの交差点のランドマークで、1935(昭和10)年に建てられた大阪の羅紗問屋の東京支店「鷹岡ビル」である。
1階部分の外壁は御影石、看板は一文字ずつの浮き出し仕様、昭和モダニズムを感じさせる建物で、平成15年に千代田区景観まちづくり重要物件に指定されている。

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左:山本歯科医院 │右:鷹岡K.K.ビル  

2008.1.20 鉛筆・透明水彩

この建物の裏一帯の地域が「須田町一丁目」で、先の「東京大空襲」では奇跡的に被害を受けなかった地域である。関東大震災以降の町並みが辛うじて残っているユニークな町なのである。

 靖国通りと中央通りが神田川に突き当たる辺りは軸線が振れることにより、三角の地形が発生する。関東大震災直後の当時の帝都復興計画案では、その辺りを広い公園にする案があったが、まさにこの地域一帯のことなのである。

 関東大震災の復興では土地区画整理がおこなわれ、街路が拡幅された。そのため各店舗は敷地の提供を強いられ、以前と同じような軒の出は不可能となった。必然的に庇の出の少ない、不燃材で覆った外装の建物が主流となり、いわゆる「看板建築」の誕生である。

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左:「まつや」そば店 │右:「看板建築」の一例

2008.1.20 鉛筆・透明水彩

 そんな中でも昔ながらの老舗の店構えを保っている一つが「まつや」そば店である。創業明治17年と謳っているがもちろん関東大震災後の建物である。ひいきのお客も多いことなのでご存知のことかも知れないがあえて記すと、いつも混んでいるので、入口は右から、左は出口と一応のルールがある。下町のこと、当然相席が当たり前である。付け汁はもちろん下町風のすこし濃い目。
「そば味噌」つまみにお酒を一杯、最後に「もり」でお勘定・・が・・常連さんの定番のようだ。

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左:「いせ源」あんこう鍋店 │右:「竹むら」おしるこ店

2008.1.26 鉛筆・透明水彩

奥に入っていくと、江戸の風情たっぷりの店があちこちに、池波正太郎の愛した町が残っている。

【新情報】 こんなニュースが飛び込んできた!(2008/02/07)

「神田淡路町など3地域のまちなみ整備を支援、東京都」

 東京都は2月4日、地域のまちづくり団体などが行うまちなみ整備事業を支援するため、対象となる3地域を選定した。神田淡路町・須田町の老舗街、北品川の旧東海道と路地、柴又の帝釈天を中心とした地域が対象となる。
 まちなみ協議会などの団体は、歴史的建造物がある地域の路面や植栽、外観整備などを行う。都は観光まちづくりの一環として、地域の団体が行う情緒あるまちなみ整備事業を、2008年4月から支援する。《東京都の報道発表資料

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旧交通博物館跡

 須田町の神田川縁に建つこの廃屋は、昨年(2007年)まで交通博物館だった建物である。1936(昭和11)年に建てられたので、70年のおつとめであった。

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昨年閉館した交通博物館 2008.1.26 鉛筆・透明水彩

総ガラスの半円筒形階段室と全体との構成がシンプルで美しい。当時はモダニズム建築を否定するナショナリズムの強い風潮であるのにも関らず、よくここまでモダンな建物が出来たものだ。大宮に新交通博物館ができて、かつての賑わいが嘘のように、荒れ放題の状態で佇んでいる。
 狭い敷地であったが3階のフロアーには鉄道、自動車、船舶、そして航空機までも交通関連の機械展示が行われていた。しかし2006(平正18)年に、惜しまれつつも閉鎖され、鉄道関係だけが埼玉・大宮に移転、再展示されている。鉄道展示以外も優れていたので大変残念で寂しい。

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旧万世橋駅跡

 かつてここに「万世橋駅」という駅舎があった。旧交通博物館の裏側(神田川沿い)の見事なアーチの連なりはかつての駅舎の名残で、この上がプラットホームで南側に駅舎があった。

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かつての万世橋駅プラットフォームを偲ばせる姿 2008.1.20 鉛筆・透明水彩

 東京駅(東京中央停車場)が開業(1914(大正3)年)するまでは上野(東北線)、両国(総武線)、新橋(東海道線)、そして神田(中央線)が首都東京へ乗り入れる東西南北の大ターミナル駅だった。

初代萬世橋駅復元図

 中央線はかつては甲武鉄道と称し、新宿〜八王子間を開業(1889(明治22)年)、さらに都心まで延長して1912(明治45)年にはこの万世橋駅が始発駅であった。
当時の須田町あたりは路面電車の行き交う要所でもあり、大変賑わったところと聞く。そしてこの駅舎が大変豪華な建物で、当時の神田っ子の自慢だったと想像される。駅舎内には1等・2等の待合室、食堂、バー、会議室等が設置され、堂々たるものである。設計はこの2年後に開業する東京駅と同じ辰野金吾で、言わば辰野の「東京駅」設計の小手調べと言ったところだろうか?外観も東京駅と大変よく似た赤煉瓦と白い石による構成で、当時の少ない資料を基に想像(?)復元図を描いてみた。

大震災後の復興した駅

 その後1919(大正8)年に「神田駅」が出来ると、徐々に駅の存在感がなくなるが、関東大震災で焼失することと、復興計画で幹線道路が拡幅され、靖国通りとの交差点が広く取られることにより、今までの駅前付近は裏通りとなってしまった。さらには秋葉原駅が新設され、総武線の不通過駅ともなると、関東大震災後の改修で旧駅舎の2階部分を削られた平屋の駅舎として辛うじて残ることになる。
 1936(昭和11)年、東京駅近くにあった「鉄道博物館」が移転してきて、平屋の駅舎は博物館として建て替えられるが、ホームと博物館との隙間を改札口とし、駅事務所は博物館内に間借りして細々継続、そして太平洋戦争に突入すると、1943(昭和18)年には営業休止となってしまった。

【おまけ情報】

地下鉄にも「万世橋駅」があった

 地下鉄銀座線は浅草側から新橋に向けて、オープンカット工法で進められてきたが、神田川を通り抜けるトンネル工事が難工事で、完了するまでの短い期間を秋葉原側で折り返し運転した。そのための臨時地下鉄駅である。
 川底へ向かう傾斜した路線の1路線を利用して木造の平らなプラットフォームで覆い、隣の上野末広駅までの間を単線運転したとのこと。(昭和5/1/1〜昭和6/11/30)

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万世橋

 中央通りが神田川を越える橋が「万世橋」である。この橋とひとつ上流の橋「昌平橋」とを調べてみたら、いろいろな歴史を知ることになった。

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橋のたもとの施設はなんだろう?
2007.11.4 鉛筆・透明水彩

江戸時代にはこの橋はなく、少し上流にある筋違御門に付属する橋(筋違橋)とその少し上流に架かる「昌平橋」があった。「中仙道」はこの昌平橋から、湯島聖堂と神田明神、そして本郷に至るルートが取られていたようである。

元萬代橋の想像図

筋違御門は、1872(明治5)年に門が解体されて、その石垣を再使用した橋が架けられた。この橋は東京で一番古い石造の2連アーチ橋で、その形から眼鏡橋とよばれた立派な橋であったという。
萬代橋(よろずよばし)と命名されたが、いつの世からか(まんせいばし)と呼ばれるようになった。
その当時の欄干が神田明神の境内裏に現在でも保管されていると知り訪ねてみたら、身長ほどの擬宝珠高欄で、架木は腰掛けられるほどの低いもの1段であった。実際は2段にして取り付けられたものだろう。そんなことを想像しながら在りし日の「萬代橋」を描いてみた。
なお当時の風景を画家を目指していた長原孝太郎がスケッチしていたので参考にさせてもらった。

    眼鏡橋出現から「万世橋」と「昌平橋」との歴史は複雑なので、ここでまとめてみる。

  • 1872(明治5)年、筋違御門が解体撤去。石垣の再利用で「萬代橋」(よろずよばし)造られる。通称「眼鏡橋」

  • 1873〈明治6)年、上流の「昌平橋」は重要な橋であったが流失してしまった。

  • 1878(明治11)年、現在の万世橋より少し下流に有料の橋が架けられ、「昌平橋」と名乗った。

  • 1884(明治17)年、現在の万世橋の場所に鉄骨造の橋が架けられ「昌平橋」と名付けられた。
    それに伴い有料橋は廃止された。

  • 1899(明治32)年、上流の元来の昌平橋があった場所に新たに橋が架けられ、「昌平橋」と命名され、下流の昌平橋は「新万世橋」と改名した。

  • 1903(明治36)年、眼鏡橋(萬代橋)は「元万世橋」としたが1906〈明治39)年には撤去されてしまった。

  • 1923(大正12)年の関東大震災で両橋倒壊する。

  • 1928(昭和3)年に現・昌平橋が、1930(昭和5)年に現・万世橋が架けられた。

かように、この二つの橋は世の中の変化に翻弄されたかのように、場所替えと改名を続けてきたのだ。
 
現在の「万世橋」の袂には河岸に降りられる階段が用意されている。

← 右岸 と 左岸 →

インクペンと鉛筆 CG処理 20080208

当初は、公衆便所が地下にあったのか?程度にしか思ってなかった。
その後、地下鉄駅のことを知って、その出入り口に違いないと確信した。しかし地下鉄路線を調べていくうちにそれも否定された。
そしてたどり着いた想像が、船着き場である。

 現代に生きる私達は陸上の車・列車が交通手段となっている。しかしついこの間まで、水路を主役とした交通網が縦横無尽に広がっていた。そのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
往時の水上交通を想像させてくれる仕掛けを見直すだけで、町の歴史・文化を身近に感じ、なんと楽しい町になることだろう。 ・・・と、ちょっとうれしいものの発見!である。(いや!思い違いかも知れない)

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秋葉原界隈

「あき  ばら」か「あき  はら」かと以前から呼び名が気になっていて、昔から上野に住む人生の大先輩に伺ったことがある。 昔はあきばっぱら」だよー! ・・・・とのことだった。

秋葉原界隈マップ 電気街口 つくばエキスプレス新駅口 佐久間橋 船着き場

安政3年当時の絵地図に現在の白地図を重ねてみた
上流の昌平橋辺りからの防火空地が和泉橋まで延びている

 1869(明治2)年の大火で、明治天皇の勅命により現在の秋葉原駅辺りに神社「鎮火社」が置かれた。民衆は江戸時代から信仰していた、火伏せの「秋葉大権現」に因み、秋葉(あきば)さんと呼んだ。境内は防火の目的で原っぱにされ、それが「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」「秋葉原(あきばがはら)」と呼ばれるようになった。
(あきはばら)と呼ばれるようになったのは「あきはばら」駅が出来てからのことである。
なお、神社は1890年(明治23)年の秋葉原貨物駅開設に伴い駅北側に移転している。

 その当時は上野から延長された単なる貨物取扱所ではあるが、ほぼ同時期に神田川から堀割を貨物駅まで引き込んで水上交通とつなげる事により、物流の重要なターミナルとしている。鉄道の更なる延長で東京駅につながれ、総武線が両国から延長・中央線(お茶の水)との接続で、物流は鉄道中心となったがその機能は変わることはなく、さらに重要な駅となった。そして水上交通は見捨てられていくことになる。
 平成の時代になると、広大な貨物駅や神田青果市場(ヤッチャバ)の再開発で、さらには常磐新線(つくばエクスプレス)の始発駅として大変貌を遂げている。
 この先この街はどこまで変わっていくのだろうか・・・・

 江戸時代の絵図を見ても神田川沿いの防火空地をみると「江戸の花」といわれた火事をいかに恐れていたことかがよく分かる。

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秋葉原駅、電気街口

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電気街口の秋葉原駅 高架鉄道の下が「秋葉原デパート」 線路の向こうは再開発された昔のヤッチャバ 
2008.1.26 鉛筆・透明水彩

「秋葉原」といえば「電気街」という連想が普通だが、そんな町になったのは戦後のことで、それ以前は秋葉原駅を中心とした乗り換えターミナルであり、物流中心の場所であった。戦後早々の駅再建に、財政難に苦しむ国鉄が打ち出した手が民活によるステーションビルの建設で、その初期にできたのが「秋葉原デパート」。
高架のプラットホームからデパート口の改札を通り、売り場の前を列を成して乗降客が走り抜けていく。それも駅の周りの再開発で、閉鎖してしまった。 駅前ではいつも実演販売で人集りの山で、なんとも人間くさい街だったが、さてどんな風に進化していくのだろうか。

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メードさんファッション

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秋葉原風俗のメードさんファッション。 こんな萌えスタイルの女の子が、あちこちでビラ配りしている。 
2008.1.26 鉛筆・透明水彩

 昔からの「電気街」は最近は「フィギュア」だそうで、漫画に登場するキャラクター姿も出没する。世界で唯一、メイドさん姿の女の子が闊歩している町で、こんな格好の女の子達が町中にあふれていている。 彼女らの特徴は、ショッキングピンクと黒と白の衣装、白いフリフリと頭には被り物・・・が必要アイテムか

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秋葉原駅、常磐新線口

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左ガード(山手線)を潜った先は昔ながらの「電気街」。 右ガード(総武線)奥は「つくばエクスプレス」始発新駅へ
 2008.2.16 鉛筆・透明水彩

 かつての神田青果市場(ヤッチャバ)と貨物操車場の跡地は、今までの秋葉原とは思えない光景に出くわす。再開発で高層ビル群の中に広い道路や広場が造られ、地下には常磐新線(つくばエクスプレス)が引き込まれている。
かつての雑踏の中での秋葉原名物・実演販売は伝説となっていくのだろうか。

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佐久間橋

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堀割は埋め戻され、公園となっている。欄干の石柱だけが歴史の証人。 
2008.2.16 鉛筆・透明水彩

 さらに昭和通りの方に進んでいくと、川もないのに一対の橋の石柱に出くわす。川に相当するところがちょっと低い公園になっている。そう、これが神田川と貨物駅とを結ぶ堀割の跡である。
 突き当たりの総武線ガード下を潜っていくと、かつての貨物積みかえの舟溜りだったが、平成の再開発でIT関連の大型量販店に大変貌をとげている。

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和泉橋防災船着場

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堀割が神田川と取り付くところは公園と船着き場になっている。右は昭和通りが神田川を渡る「和泉橋」 
2008.2.16 鉛筆・透明水彩

 この船着き場は災害時の住民避難や救援物資の輸送のために設けられたもので、正式名称は「神田川和泉橋防災船着場」。
明らかに当時の掘割の痕跡が認められる。
 かつては東京有数の貨物駅「秋葉原」から掘割を経て、神田川、隅田川、荒川、利根川・・・へと 運搬していたと思うと、やはり東京は水上都市なのだと改めて気付かせてくれる。千代田区の防災設備とは・・・なかなか良いアイデアである。
さて、昭和通りまで来てしまったので、少々神田川を上ってみよう。

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 神田川を「和泉橋」から「万世橋」「昌平橋」と上流に向かっていくと、長いだらだら坂に出会う。
この先は武蔵野台地の先端が江戸湾に迫るところで、江戸時代以前は眼下に海が入り込み、葦原も望めたところと想像される。
 江戸時代になって、江戸城築城に絡めて日本橋に流れていた本流(日本橋川)の放水路として掘割されたのが「神田川」と知り、当時の土木技術に改めて驚かされる。
 深く掘られた崖には草木が茂り、清流が流れる江戸名所の景観「茗溪(めいけい)」として多くの絵師に描かれている。

湯島聖堂

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広重江戸風景版画 
昌平橋-聖堂-神田川

 この場所は個人的にはあまり興味はなく、避けるつもりだった。しかし今回、いろいろ調べていくうちに貴重な歴史を知ることになった。
  ウーン! 神田は奥深い!

 湯島聖堂は1690(元禄3)年、5代将軍綱吉によって上野忍ヶ丘(上野公園あたり?)に在った林羅山の私邸内の孔子廟(大成殿)を移築したことから始まる。
また林家の学問所も当地に移転している。
 寛政の改革により1797(寛政9)年 林家の私塾(学問所)は幕府直轄学校「昌平坂学問所(別名:昌平黌・しょうへいこう)」となる。
 明治維新になると新政府直轄となり、学問所は大学校・大学に、 1871(明治4)年には文部省がこの地に置かれることで大学は廃止されるが、翌1872(明治5)年に東京師範学校(現:筑波大学)と我が国初の図書館(書籍館)が、1874(明治7)年には東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)が置かれた。

 まさにこの地は、江戸時代からの「学問所」としての伝統を受け継いだ近代教育発祥の地なのである。 現在、多くの学校がこの近辺に集まっているのは、そうした伝統が息づいているのだと理解した。

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神田川に沿った 長い坂道 と 長い土塀。  塀の中のさらに奥が「湯島聖堂」
2008.2.16 鉛筆・透明水彩

 この長い土塀の姿は湯島聖堂を特徴付けるもののようで、江戸時代の絵画を見てもこの塀が必ず描かれている。
土塀の中に入ると北に直登する石段がある。まさにこの場所はお山なのだ!と直感する。

この敷地の北側は神田明神で、その辺りが山頂に当たるところ。
この山が「神田山」と云うことだろうか? その~社との間を通る道が「中仙道」になる。

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階段正面の「杏壇門(きょうだんもん)」。 戧獣や見事な水煙を上げている正吻を載せた屋根は必見
2008.3.2 鉛筆・透明水彩

 その頂上にある黒い建物が「杏壇門(きょうだんもん)」、それをくぐると広い前庭があり、正面に「大成殿(孔子廟)」がある。どちらも青黒い建物でこれが彼の大陸の孔子様の霊を祀った廟か、と異文化を感じる。
この廟は幾多の大火や、関東大震災にも遭い、焼失の繰り返しで現在の建物は震災後の1935(昭和10)年に再建されたもので、設計は伊東忠太による鉄筋コンクリート造平家建てである。
この青黒い外装は伊東忠太の発案であろうか? それ以前の建物は全体を朱塗りにして青緑で彩色された、まさに神社仏閣の彩色であったようである。
屋根に鎮座する青銅の「戧獣(そうじゅう)」や「正吻(せいふん)」はまさに「お化け大好き」な設計者「伊東忠太」真骨頂の装飾である。

【注釈】
戧獣(そうじゅう):中国建築で、屋根の隅棟に付けられた屋根飾り。
正吻(せいふん) :中国建築で、大棟両端に載せられる鴟尾に似た屋根飾り。

(鴟尾は猛禽の尾を模っているのに対して正吻は魚形をしている)

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神田川沿いの坂道をさらに登っていくと、「聖橋」に出る。ここまで来ると水面は遙か下で、鉄道まで橋の下を通過しているのだ。
 江戸時代は「昌平橋」から、さらに上流に架かる「水道橋」までは橋はない。「聖橋」は1927(昭和2)年の建造で、橋の両側に「湯島聖堂」と「ニコライ堂」があったため、公募で「聖橋」と命名された。 ちなみに「昌平橋」はすぐ近くの「湯島聖堂」(昌平黌・昌平校)に因んだ由緒ある命名だ。
 川を挟んでドーム状の建物が見えるが、あれが「ニコライ堂」である。
ちょっと寄り道して立ち寄ってみよう。

ニコライ堂

東京に住んでいながらこの建物に対峙するのはじつは初めてである。
この高台(駿河台)で、竣工当時の高層にしてユニークな外観は、東京中のランドマークだったことだろう。 そして現在の環境は高い建物に取り囲まれ、街に埋もれたものとなってはいるのだが、これだけの本格的なビザンチン建築を目の前にすれば誰でも圧倒される・・・と思う。

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 聖橋から望むニコライ堂(左) と ニコライ堂正面(右)

2008.3.2 鉛筆・透明水彩

入口に張られていた説明文を引用する

昭和37年6月21日文部省指定 重要文化財
東京復活大聖堂(通称:ニコライ堂)
この聖堂は1884(明治17)年3月に起工し工期7年を以て1891(明治24)年2月完成したもので、設計者はロシア工科大学教授シチュールポフ博士、工事監督は英国人コンドル博士です。
頂上までの高さ:35メートル 建坪:318坪 壁厚:1メートル〜1.63メートル
日本最大のビザンチン式建造物として知られております。

日本ハリスト正教会教団

この説明でまず目を惹いたのは設計者がコンドルではなかったということだ。一般的に云われている?のかは分からないが、設計者はコンドルで通っている。イギリス本流の建築を学んで、お雇い外国人として来日した若き青年が、西洋建築様式をすべてマスターしているとは到底思えないので理解できることである。

震災前(左)と震災後(右)の姿
(鐘塔の比較スケッチ)

 竣工当時の写真をwebで探してみたら、屋根に関しては現在の形とはかなり違っていた。鐘塔部分に関しては現在よりもかなり高いのだ。そして関東大震災では崩壊してしまっている。この鐘塔は私にはコンドルの母国、英国国教会のものとしか思えないのだが・・・。設計者のシチュールポフの経歴を調べてみると建築家というより彫刻家としての作家の姿が見えてくる。すなわち綿密な建築図面ではなく建築様式の深い理解によるドローイングを主に描いて、実際の図面作製はコンドルが担当、その時に彼なりに修正が多々成されたことであろう。あえて云えば基本設計がシチュールポフ、実施設計がコンドルということであろうか? しかし現在ではその当時の原図は残っておらず、原案と実施案との比較なんて空想の域でしかない。
 震災後の復興に力を注いだのが岡田信一郎で、1930(昭和5)年まさに50代の岡田大活躍の時期に、さらに洗練された形で改修されたと思うのだが・・・。

【ニコライ】の名称について

 ニコライは修道士名で、通例ニコライ・カサートキンと呼ぶ(本名:Ioan Dimitrovich Kasatkin)。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、日本での伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本伝道に捧げた。

引用:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』抜粋

決して聖ニコライを記念する聖堂ではなく、聖ニコライによりロシアの建築家ミハイル・シチュールポフに設計依頼して出来た聖堂である。「東京復活大聖堂」の名称が示すように、イエス・キリスト(イイスス・ハリスト)の復活を記念する聖堂である。ちなみに聖ニコライは正面右手に小さな祠(?とは云わないのかな・・・)「亜使徒聖ニコライ記念聖堂」として祀られている。

ご案内

 日本ハリスト正教会は、キリスト教の旧教で(東方正教会・The Orthodox Church)全世界各国にある正教会の中のひとつの独立した教会です。正教会はキリスト教の中の本家ともいうべき立場を保ち、初代からの伝承を守り今日に至っています。
 古代に存在した五つの独立教会の四つの総主教区、コンスターチノープル、エルサレム、アンティオケ、アレキサンドリアの総主教区を中心としギリシャやバルカン半島の国々、フィンランドやスラブ民族のロシア、ブルガリア、セルビア、ルーマニアなど他の国々の国教であり、現在ではヨーロッパや南北アメリカにも分布しています。
 各正教会は国単位でまとまっていますので、本山は各国の首府にあります。したがって日本正教会の本山は、当地東京復活大聖堂(ニコライ堂)です。全世界の正教会は、お互いが密接に結びつき信仰生活を分かち合うことによって、ひとつの共同体となっています。 全世界には約三億余りの集まりです。

日本ハリスト正教会教団

<東京復活大聖堂教会活動案内>掲示板より

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神田明神

 歴史は古く、730(天平2)年に現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺に創建された。 神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。 江戸時代に、江戸城増築に伴い現在地に遷座された。 御神殿は豪華な桃山風社殿として造営されたが、1923年の関東大震災で焼失したが、鉄筋コンクリート造で再建された。 伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一といった近代神社建築・都市建築を代表する建築家による設計である。
1945年の東京大空襲では本殿・拝殿などは焼失を免れている。

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鳥居と その奥に見える隨神門

2008.2.16 鉛筆・透明水彩

 昌平橋から神田山を登っていく「中仙道」のルートを取ると神田明神の鳥居が右手に見えてくる。 鳥居の前は、昔からこんな茶店があったのではないかと思わせる光景である。
 

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絢爛豪華な隨神門を潜ると境内へ至る 右は車専用門

神社裏で見つけた「元萬世橋」擬宝珠高欄
2008.3.2 鉛筆・透明水彩

昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立。関東大震災で焼失して以来約50年ぶりの再建。
総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。各所に配した文様は伝統的なテーマをもとにしつつ、オリジナルなデザインを使用。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」といった大貴己命の神話をモチーフにした彫刻が飾られている。また二層目に「繋馬」の彫刻が飾られているが、この繋馬は平将門公の家紋に由来。
その後、平成10年に『平成の御造替事業』により鮮やかに塗替えられた。

<神田明神HPより>

橋の高欄は御神殿裏にひっそりと残されていた。
日露戦争の犠牲者を刻み込んだ彰忠碑を守る垣根として利用されていた。
石柱に刻まれている「元萬世橋」の文字の「元」の字は多少小さく、後で付け加えて彫られたことと思われる。文字全体のバランスをみると、少なくとも30センチは地中に埋もれていると推定できる。そのことから高欄は2段と想定し復元図を起こしてみた。予想に反して、かなり巨大な擬宝珠高欄と想像できる。
寸法は目測だが、その大きさは書込人物で想像していただきたい。

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湯島天神

南から「湯島聖堂」、「神田明神」と続いてさらに北に進むと、千代田区・台東区・文京区の絡み合った地域になる。駿河台・神田山に連なる高台が、ここ「湯島天満宮」で不忍池の湿地帯にぶつかる。

左:「男坂」 │ 右:「女坂」

sketch

2008.1.26 鉛筆・透明水彩

 「湯島天満宮」は通称「湯島天神」、旧称「湯島神社」と呼ばれ、古来より江戸・東京の代表的な天満宮である。学問の神様なので季節柄、合格祈願の参拝で賑わっていた。
正面の参道は南からだが、東から訪れるのが面白い。高台に一気に上がるための坂道が用意されている。それが左からの「男坂」、そして右から迂回して上がるのが「女坂」で、登り切ったところが落ち合い場所か。 梅の時期にはちょっと早すぎた。

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新橋の「中銀タワーカプセルビル」から始まって、ようやく到着した。
この章の終着点がここだ!

上野池之端 旧法華クラブ、ホテルCOSIMA(改 ソフィテル東京)

この建物の設計者・菊竹は設計活動初期から「海上都市」を初めとして、着脱可能な住居単位をもった巨大構造物を提案してきた。その発展したかたちが、セットバックした数層のフロアーを1ユニットにして高層に積み重ねるという集合住宅として、(今から思えばかなり昔になってはしまうが)たびたび建築雑誌で発表していたのを思い出す。それがついに上野の森にホテルの姿に変えて実現したのを知って、この作家の執念を感じた。

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撤去作業中のクレーンから、かつての建物を思い浮かべて描いてみる 2007.11.4 鉛筆・透明水彩
右はあとに建った、ルネッサンスタワー上野池之端(38F、136.5m、2005.3 建設)

1994年(平成6年)の竣工で、2006年12月までの命というから、たったの12年間しか存在していなかったことになる。こんな短命はなぜなのだろう?

 メタボリズムとは新陳代謝。 建物も変化して長寿命を保っていくものである。 今の時代の言葉に代えれば「リフォーム」「リユース」「リサイクル」の精神であろう。
それができないのはマンモスのように巨大化構造物になってしまったのが一因ではなかろうか。そう、アーキグラムの建築のようにクレーンが常時活躍している工事中状態が完成建物なのである。

見方を変えると、池之端の畔という抜群の環境の良さが命取りになったのではなかろうか。
池と上野の丘と低い家並みというのがこのあたりの原風景である。 そこに突然高層の建物が出現したのだから周りの住民からは違和感があったに違いない。
これが新橋の高速道路の傍らに建っていたら・・・・・。
臨海副都心の広い海に面して建っていたら・・・・・どうであっただろう。

いや、本当のところは商業建築であるが故に、投資と利潤という天秤に常時掛けられている事に耐えられなかったということだろう。
こんなかたちで取り壊されるメタボリズムは、すでに1970年の大阪万博が到達点であり、終点であったと云えないだろうか。

設計:菊竹清訓/菊竹清訓建築設計事務所
完成:1994年
解体:2007年  地上26階、110.2m の高層建築で、日本で初めての解体になる。

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 終着点が取り壊し中というのではあまりにも悲しいので、出発点の「旧新橋停車場」に合わせて明治期の建物を最後に付け加えることとする。

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岩崎邸 撞球室

 ホテルCOSIMAのすぐ近くに、旧岩崎庭園(都立公園)がある。かつて、明治期を代表する岩崎家(三菱財閥)の旧宅(和館・洋館・ビリヤード場・庭園)が建っていたお屋敷である。東大のある本郷から上野にゆっくり下りてきて、不忍池を見渡したであろう高台にある。かつては現在より3倍はあったといわれる敷地だが、現在でも十分に広い敷地である。入口から遠巻きに大木の茂るお山を見上げながら緩やかな坂道を辿っていくとようやく屋敷が見えてくる。最初に眼にする建物は堂々とした洋館だが、庭に廻る先に山小屋が建っている。これが今回の主役「撞球室」である。訪ねたときは、本館は改修中で外側は覆われていて見られなかったが、そちらのほうは、あまり興味がないことで、本命はこちらの方である。

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ベランダの屋根はカラー鉄板瓦棒は似合わないので、木板による大和葺のつもり
2007.11.4 鉛筆+透明水彩

 この撞球室はまずログハウスなのに驚かされる。カナディアンでなく北欧の洗練されたログハウスである。本館のグロテスクとも云える洋館に対して森の中に佇む小屋として、申し分のないお膳立てなのだ。
スレート葺きの切妻屋根、緑青を吹いた煙突、破風はデコレーションされ、妻壁は鱗葺き、明り窓はルーマニア風とでも云うのだろうか、人の眼を連想させる形に穿ってる。

さらに南面するベランダには注目である。屋根はカラー鉄板瓦棒葺きになっていたが本来は違っていたことだろう。しかしその木構造に施された装飾は石造建築に拘っている彼の地のものである。梁には大面取り、柱はなんとしてでも丸柱にする意気込みが感じられ、足もとの角柱に大面取り、節をもった中間部の丸柱、梁を支える持送りの刳形、みな異国の文化そのものだ。

庇の先端を薄くするために方杖と垂木にまでも刳形をつけて処理している。隅から隅まで気を入れているのだ。ビリヤードという趣味だけの部屋に、こだわわりの装飾が微笑ましい。

この建物は中心に広い部屋だけがあり、倉庫のような付属室があるのみ(上がれないので窓からの認識)。しかしすごい仕掛けが隠されていた。本館とは地下でつながっているのである。ベランダの片隅に少々突出している部分があるが、地下通路の採光・換気を兼ねた小窓があるので、そのことが判る。さらにはその建物への延長上に地下からの階段が屋内にあるので確認できる。
これだけの小屋に地下室があるということは基礎がしっかりしているということを想像させる。大正12年(1923)の関東大震災には上野あたりは大災害に遭っていたはずなのに、この建物が残っていることは、それを証明しているという事ではないだろうか。

設計は洋館と同じく英国人建築家のジョサイア・コンドル
完成は1896年(明治29年)

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この建物を見て、この設計者ははたしてログハウスをどのくらい理解しているのか?と思った事が一つある。
木材は成長する方向(軸方向)には伸縮しにくい。それに比して横方向は大きく変化し、胴回りは一番伸び縮みする。(ひび割れはその性質から) そのため柱で屋根を支える建物は高さは変わらなが、ログハウスは横に積み上げるので長い間には高さが変わってしまう。
南側ベランダは全体の屋根勾配が均一に変わることで対処できる。 窓は潰されないように大きな枠で工夫しているようだ。 しかし室内の内装壁張りには疑問なのだ。それは見事な化粧紙(金唐革紙)張りなのだけれども、その下地がどうなっているのか? 床から天井一杯に貼ってあり、逃げが取ってあるようには見えないのだが・・・・。
いや、建設以来100年以上経過しているんだから、そんな心配は無用と云うことだろうか・・・。

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【グーグル検索でその後の新情報】

 金唐紙製作者(上田 尚)に関するHPで、2002年に修復した記録が見つかった。
2004年には一般公開3周年を記念して「旧岩崎邸庭園と金唐革紙の世界」を開催とある。
竣工当初から仕上げてあったならば、しばらく(?)は問題だが、一世紀を過ぎてから張りかえても、更には新たに張ってもたいした問題ではなかったということだろう。


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