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日本橋

日本橋は街道の原点

中央通り(新橋・銀座・日本橋)


中央通りマップ 旧新橋停車場 カプセルタワー 静岡新聞東京支社 交詢社ビル 銀座ライオン 三愛ビル 和光ビル 明治屋京橋ビル 高島屋東京店 川崎定徳本館 日本橋 三越 三井本館 三井タワー 今川橋

江戸は世界的にも大きな海上交通都市

<案内リスト>
  1. 旧新橋停車場

  2. カプセルタワービル

  3. 静岡新聞東京支社

  4. 銀座ライオンビル

  5. 交詢社ビル

  6. 三愛ビル

  7. 和光ビル

  8. 明治屋京橋ビル

  9. 川崎定徳本館

  10. 高島屋東京店

  11. 日本橋

  12. 三越本店

  13. 三井本館

  14. 三井タワー

  15. 今川橋

  16. 以降 続編に続く


 都知事選・参院選等で大いに賑わせていた建築家・黒川紀章が先日(2007年10月12日)亡くなった。 彼は1960年代に日本で興ったメタボリズム運動の中心的メンバーで、とりわけ未来志向の建築家として菊竹請訓と共に活躍した人物である。
 奇しくも、この二人の設計した建物が日本を代表する繁華街・商業地(新橋 ─ 銀座 ─ 神田 ─ 上野)を貫く中央通りの南北両端に位置、対峙している。そして上野の建物は昨年いっぱいで閉鎖して現在は建物の撤去中、片や新橋の建物は撤去・解体騒動が起こり、似たような運命を背負っているのはただの偶然だろうか。

・・・・・

 中央通りは、日曜祭日となると歩行者天国として車道を歩行者に開放している。(初期の頃は全区間解放されていたと記憶するが現在は主要部のみであるが・・)
 ・・・ということで、新橋から上野に向かって車道の真ん中をぶらついてみた・・・

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車道の真ん中を歩くと、高層化した建物も全体が見え、普段気が付かない街が発見できる。

繁華街・商業地には車はやっぱり似合わない!


 

旧新橋停車場

 スタート地点はやはりここから。
汐留地区再開発で、かつての新橋・横浜間の始発駅(1872(M5)年に開業)は、超高層の建ち並ぶ谷間に旧停車場として復元されている。(2003年4月10日に完成)
右手には、当時の鉄道の起点であった「0哩(マイル)標」が同じ位置に再現されており、その当時のレールも数メートルだけ敷設されている。

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復元された旧新橋停車場 2007.11.4 鉛筆・透明水彩

 1914(T3)年に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、電車線の駅であった烏森駅が、新橋駅(2代目)となりかわった。
旅客営業が廃止されてからは貨物駅として汐留駅と改称、東海道・山陽方面へ向かう貨物列車・荷物列車のターミナル駅として君臨し続けた。その後、荷物輸送は宅配便の登場で衰退しコンテナー列車中心に替わり広大な敷地の必要に迫られることになる。そして大井埠頭の東京貨物ターミナル駅(1973年開業)に機能を譲り、1986年(昭和61年)11月1日には廃止された。
時代は移り変わり、民活導入で広大な敷地は超高層のオフィス街として再開発されたが、辛うじてこの駅舎はかつての姿に復元され、超高層の建物の中に記念碑として埋もれている。

 すぐ近くに臨海副都市線ゆりかもめの終点駅「新橋」があるのだが、なぜこの駅を活用できなかったのだろうか。再開発計画時にその土地の歴史を読み込んで計画すれば可能なことと悔やまれる。

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中銀カプセルタワービル

この章の主役の建物。黒川紀章の若かりし頃の一貫したコンセプト「メタボリズム」を具現化した建物であるが、大阪万博を頂点とするその時代背景や流行が作ったとも云えるのではないだろうか。
1972(S47)年の完成で、設計はもちろん黒川紀章/黒川紀章都市計画事務所、建物形態は地上11階〜13階地下1階のワンルームマンション。

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常に建て替え中の都市・東京。大動脈ハイウェーの傍らに違和感なく佇んでいる
2007.11.4 鉛筆・透明水彩

 この建物が、取り壊すのか、はたまた保存するのか・・・で揺れている。黒川も亡くなる直前まで意気軒昂にメタボリズムの思想を説き、現代の要求に応えたカプセルに取り替えて保存すべきと主張していた。
この建物の悲劇の一因は建物が区分所有されていることではないだろうか。所有者の80%以上の支持がなければ何も変えられないからだ。すなわち住民が同一意識にならなければ建て替えも大改修も出来ず、スラム化することは避けられないのだ。それが幾多の困難を乗り越えて、ついに今年の春(2007年4月15日)の管理組合臨時総会で、建て替えが正式に決定したそうである。

 個人的にはメタボリズムの記念碑的建造物として残しておいてほしい気持ちいっぱいであるが、区分所有された建物のこと、原爆ドームのような形で残されるより、住民の総意で現状よりリファインされた形のものに発展されんことを望み、期待したい。

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都市の建物は、いったん区分所有されると決してあとに戻すことはしにくい。マンション企画者は個人に売りつけることだけを頭に描いているが、それはすなわち都市をスラムにしてしまうことに繋がると云うことを肝に銘じておくべきである。

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中銀カプセルタワービル (そのご)

浜離宮庭園の大手門口を出るとすぐ近くにこの建物がある。7年ほど前に当時はこの建物の存続で世間を賑わせていた。その建物も取り壊して新しい建物になると聞いていたが、いまだに当時のまま・・・というよりは、住民退去?で閑散とした姿となっていた。

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 2014.9.13 鉛筆・透明水彩

 地権者は細分化され、オリンピックインフレという難関にもぶち当たり?・・新たに建設できるのだろうか? スラム化しないことだけを願って前を通り過ごした。

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静岡新聞・静岡放送東京支社

中銀カプセルタワービルのすぐ近く、中央通りの反対側にこのビルが建っている。
似たような形なので同じ設計者か?なんて思う方も居られるかもしれないが、こちらは黒川紀章の師匠とも云える、丹下健三の設計。1967(S42)年完成のオフィスビル(地上12階)。

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この建物もハイウェーの傍らに立っている。その姿あたかも交通整理・監視している姿にも見える
 2007.11.11 鉛筆・透明水彩

この建物完成当時はメタボリズム建築運動の真っ盛りな時期であるが、丹下の思想は「東京計画1960」を代表とする増殖していく都市像をイメージしていたはずである。前年(1966)完成の「山梨文化会館」も丹下が設計しているが、その建物は複数の円筒形シャフトが都市に建ち、空中でそのシャフトがフロアーで繋がっていく。いたってメガストラクチャー的な発想をしているのだ。そのシャフト1本だけが銀座の街はずれのハイウェー沿いにランドマークとして寂しく建っているのだと云えなくもない。

 丹下はメタボリズムに影響を与えたことは確かなことだが、彼自身は決してメタボリストではなかったのだろう。この建物は黒川に影響を与えてはいても、カプセルタワーとは全く違った思想がベースになっているのだ。

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交詢社ビルヂング・銀座ライオンビル

中央通りも銀座6・7丁目あたりまでくると今話題のファッションビルが軒並み並んでいる。まさにピカピカな街並みなのである。そんな中に昔ながらの建物もがんばって存在している。その一つがこのライオンビル。その通りから西を望むとガラス張りの飾り箱のような高層建築が見える。それが昔から古色蒼然とした建物「交詢社ビル」の新装なった姿である。

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2007.11.11 鉛筆・透明水彩

交詢ビル(正式には交詢社ビルヂング)

 以前の建物は横河時介/横河工務所の設計で、1929(S4)年に完成。19世紀末の美術工芸運動であるアーツ・アンド・クラフツを発端として世界的に流行した世紀末芸術運動の一環であろうか、装飾の多い建物であった。「交詢社」という名前が秘密結社じみて、若かりし自分にとっては近づき難かった。世紀末のデカダンスを何となく感じたからだろうか。あるセミナーで一度だけ入る機会があったが、戦前のよき大正・昭和の建物という印象だけが残っている。
新建物は装飾の多いネオゴシック風とも云える旧・入口部分を切り取って、昭和の思い出として外壁に貼り付けた建物となっている。
(平成16年10月完成)

 交詢社は福沢諭吉の提唱により1880(M13)年に設立した日本で最初の「社交クラブ」とのこと。

銀座ライオンビル

 昔ながらのビヤホールでおなじみの建物。
よく知られているのは一階大ビアホール。
階高2層分はあろうかという空間をデコラティブなタイルを用いた変形柱・梁の構成。正面はミュシャの描くボヘミヤの刈り入れ風景か?と思わす大壁画、噴水照明付の大サービスカウンター、薄暗い照明、フランク・ロイド・ライト風のインテリアなのだ。椅子・テーブルまでは気遣いがなく残念。

(画くチャンスがあると良いんだが・・・)

周りはブランド物の新築店舗が目白押しだが、ヒョロヒョロ細長く延びた高層ビルの下で銀ブラ・・では、柱脚でうろつく鼠のようにも見えてしまうのだが・・・

このビルは新橋演舞場を手がけた菅原栄蔵の設計で、竣工は1934(S9)年。

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銀座ライオンビヤホール (その内部)

「現存する最古のビヤホール」というのがこの店のキャッチフレーズ。
日本初のビヤホールは銀座の新橋際(現銀座八丁目)の「恵比壽ビヤホール」が明治32年(1899)に誕生している。関東大震災で新たに出来たのがこのビヤホールで、その当時のままのもの。昭和9年(1934)から数えて80年となるが、最古とは大袈裟な!

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 2014.9.13 鉛筆・透明水彩

内部はいたってクラシック。建設当初のままのインテリア! この日はジョッキで乾杯。スケッチもこれまで。

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▲昭和9年竣工当時

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▲接収当時の「銀座ビヤホール」

▲現在の内部

上記写真はサッポロライオン提供

銀座四丁目交差点

 ご存知、東京銀座のど真ん中。地下鉄が縦横に走り、ランドマークも一杯あって、待ち合わせ場所としてお馴染みの交差点だ。夕暮れになるとネオンサインやイルミネーション・ショッピングウィンドウが生き生きとしてきて、この街らしくなる。

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2007.11.11 鉛筆・透明水彩

「三愛ビル」(三愛ドリームセンター)

 リコー創業者の市村清氏が設立した婦人服の「三愛」などを含めた「リコー三愛グループ」のシンボルである。外壁は円柱型の総硝子張り、中心にはコアが一つあるだけで、ドーナツ型のフロアーは大変狭いもの。言わばこの交差点の広告塔を兼ねた行燈。頭部の広告は時々模様替えされるが、どれも銀座のセンスを十分に発揮した綺麗なものである。
やっぱり行燈は存在感を示す夜が良い・・・
そういえばこの角度から正面に見えていたはずの「地球儀型のネオンサイン」は何時からなくなったのだろうか。

 設計は林昌二/日建設計、竣工は1963年

「和光ビル」(旧服部時計店)

 輸入時計・宝飾品等を扱う服部時計店(現・セイコー株式会社)の創業者・服部金太郎が、ここにあった朝野新聞社屋を買い取り、初代の「時計塔」として増改築したのが1894(M27)年。
新ビル建築時に関東大震災(1923(T12)年)に遭い、大幅に設計変更され、結果的に東京大空襲にも耐え、進駐軍の接収の歴史を経て、創建時の雰囲気を今だに伝える希有な建物である。
明治以来の伝統である塔屋の大時計文字盤は東西南北に正しく向いて、どこからでも時間を知ることができる、ランドマークの元祖である。
(中央通りは正確に南北ではないのだ!)

 設計は渡辺仁、竣工は1932(S7)年

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京橋 と 日本橋

 「京橋」という地名は日本各地にあるが、もちろん「京」とは京都のこと、京都につながる街道の橋の名前からだろう。 ここ江戸の「京橋」では「京橋川」があったが、現在は完全に埋め立てられ、頭上を高速道路が走っている。さしずめ高架橋が現代の「京橋」か?高速道路が天井川か?と云うところだろうか。
 これと同じことがここから一丁先に行った「日本橋」でも同じことが云える。(こちらは辛うじて排水川のような日本橋川が残ってはいるのだが)

 この地域は川(運河)が縦横に走り、お城と湾とを結ぶ商業地区としての要所で、商店・銀行が建ち並んだ所である。今ではセレブを顧客とした高級店(宮内庁御用達)が建ち並んでいるが、古い建物だけを選んでみたら、どちらも1933年の竣工であった。前述の服部時計店(1932年竣工)といい、ブルーノ・タウトが来日、東京で目のあたりにした『モダン』な建築とはこのようなものをいうのだろう。

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明治屋(左)と高島屋(右) 関東大震災後に建てられたアメリカンモダーン建築
2007.12.01 鉛筆・透明水彩

明治屋京橋ビル

 創業1885年(明治18年)横浜で開業、という日本でも最古の食料品店で、取扱いは高級輸入食料品だけでなく、日本で最初のビール「麒麟麦酒」とも深く関わり、その独占販売もしていた。1888(M21)年
さらに日本酒を瓶詰で販売したのもここからとのこと。(それまでは樽詰めであった!)
ハイカラ食品は東京でも評判になり、東京に進出することになる。

 本社ビル建設中に地下鉄工事がおこなわれて、地下鉄直結ビルとなっているが、日本橋の「三越」と並んで日本最初のことではなかろうか?

 設計は丸の内の煉瓦建築を手掛けたコンドルの助手を務めた曾禰達蔵
竣工は1933(S8)年

高島屋 東京店

 1831年(天保2年)に京都にて初代飯田新七が古着・木綿商から呉服店に転じた老舗で、1890(M23)年に東京に進出してきた。
屋号は養父の出生地・近江国高島郡(現・滋賀県高島市)からとは意外なことだ。
この建物は元々、日本生命の建設したビル(日本生命館)で、奥の敷地を占めていた高島屋が借上げたもののようである。
(資産状況は興味もないので、詳細は不明)
 両脇の道を入ると増築に次ぐ増築で、奥深くまでつながり、原型を損なわずに違和感なく仕上げられている。内部もまた、真鍮シャッターのエレベータ、石張り階段のアンモナイト等と、興味が尽きない。

 設計は宮内省技師も勤めた高橋貞太郎
竣工は1933(S8)年
その後の数回に渡る増築の設計は村野藤吾

日本 タウトの日記 1933年5月19日(金) (抜粋)

──前略──

 商業街を見る、アメリカ風。建物のあちこちが切取られたりしている(許可される高さは塔を除いて31米だという)、最悪の商業的個人主義。ふしだらで、日本風の眼の文化はまったく姿を消している。

──後略──

タウトは京都、大阪から上京して、関東大震災(1923年(大正12年))後の耐震・不燃化建物に復興中の東京に来ている。当然それ以前の建物はほとんど残っていない。当時の目ぼしい建物はアメリカン・ボザール様式をはじめとするヨーロッパ古典様式を真似たアメリカ風建築が主だった。ヨーロッパの世界ではすでに前衛の風が流ているのを熟知している一建築家(タウト)にとってはたまらない事だったと想像する。
そして勝手気ままに計画される建物には、今につながるごった返した街並みを予感し、都市計画の無策を指摘しているのだと思うのだが・・・(注:や)

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川崎定徳本館・日本信託銀行本店(現・三菱信託銀行日本橋支店)

 日本橋界隈は「三越」「白木屋(現・COREDO日本橋)」「高島屋」「丸善」等々有名老舗が集まっているが、その後ろ盾が周りの銀行。
神田側には日本銀行、三井銀行等々、京橋側には川崎銀行が「丸善」に並んで建っていた。

この川崎定徳本館の前身は、男爵川崎八右衛門によって設立された川崎銀行・本店で、その銀行を中核企業として多方面の事業に進出、戦前の関東の十五大財閥の一つ「川崎財閥」となった。その財閥は戦後の財閥解体でいったん解散したが、現在は不動産会社「川崎定徳株式会社」として事業展開している。その総本山的建物がこの建物である。

(「定徳」とは川崎八右衛門を指すようなのだが、号か、戒名か、定かでない。)

 家訓として「定徳主義」を掲げている。それは初代八右衛門の座右の銘であり、初代自らの言葉で

「足ることを知れば定徳あり
これは、誠実・勤勉・貯蓄の励行、つまり「倹約貯蓄のすすめ」である。

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2007.11.11 鉛筆・透明水彩

元の建物は1927(S2)年に建てられたネオルネッサンス様式の旧川崎銀行本店(設計:矢部又吉)であるが、旧建物の外壁を解体、再構築して新建物に再使用し、記憶の継続を設計に盛り込んでいる。なおファサードのコーナー部分は明治村に移設保存してあるとのこと。(未確認)

在りし日の本館

旧建物の列柱の柱頭2本分を裏表に合わせて新な独立円柱の柱頭に仕上げ、前面道路側に開放した柱廊(colonnade)を構成している。また正面入口の装飾(aedicucule)は、その部分だけをそっくり利用して正面のガラスファサードに嵌め込んで据え付けている。

  • かつての重々しい建物が新しい建物を軽々と支えていると読むべきか?

  • それとも

  • 新しい建物が旧建物(象徴がエディキュラ)を守っていると理解するか?


どちらにしろ新旧建物の掛け合いが面白い。

八右衛門は千葉県水戸出身からか、本店と同じ設計者の手で千葉支店佐倉支店、佐原支店等、千葉県内に多数の支店を設けている。

 設計は坂倉建築研究所、完成は1989年。 第32回 BCS賞(建築業協会賞)受賞(1991)

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日本橋

この橋は、1603年に江戸幕府を開いた徳川家康の全国道路網整備計画に際し架けられたもので、1604年には五街道の基点とされた。焼失などで度々架け替えられているが、2007年現在のものは第19代日本橋で1911年に架けられた石造二連アーチ橋である。

「日本橋雪晴」 
歌川広重 作

当初の様子は富士山を遠景とした木造太鼓橋の浮世絵でも偲ばれるが、当時の江戸は世界的にも希に見る水上交通の発達した大都市で、諸地域から運ばれてきた物産で賑わい、商業・経済の中心地であった。
特にこのあたりの河岸は魚河岸として江戸で最も活気或る場所であった。そして明治以後、さらには大正期までも続き、大震災以降に造られた築地市場に役割を引き渡すことになる。
その後、東京オリンピックを境に、川の蓋のような首都高速道路が建設され、環境は激変した。当然、まわりの建物はこの薄暗い水路(日本橋川)には背を向けてしまった。この水路の現状は、川とは名ばかりで、実態はどぶ川なのである。(上流も然り)

 この日は、ここまでたどり着くと、かなり日が暮れてしまった。またこの時期には珍しい小雨となって、なんともブルーな気分になったのだが、いや・・・この橋の環境がその気分にさせているのではなかろうか。

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右奥に見えるのは安井武雄の設計による野村證券ビル(1930年築)
 2007.11.11 鉛筆・透明水彩

この石橋の装飾は緑青を吹いたブロンズで、その色に合わせたような高速道路。 さらには、その低さがなんとも陰鬱な橋にしてしまっているのだ。
 近年、「日本橋みち会議」や地元住民による首都高の地下化構想が話題になっている。
時の総理大臣も後押し発言をしているが、予算・技術と難題は山積みのようである。
「日本橋みち会議」案は高速道路を地下に埋めることを薦めている。しかしこの案には「臭いものには蓋」的な短絡的発想を感じるのだが・・・・。
この狭い川沿いで地上への取合部分を無理なく処理することは並大抵のことではない。
そのためのオープンスペースを稼ぎ出すために容積率の移転を図って、他所に高層建物を建てることも意図しているようだ。なんのことはない、箱物の更なる供給を狙っているとしか思えない。

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三井財閥の牙城

「江戸百景 駿河町」
歌川広重 作
駿河町通りを挟んだ
越後屋の暖簾

 現在の日本橋三越本店と三井本館が並ぶ駿河町通りは三井グループの本拠地である。
1673年 三井高利(三井家の家祖)が江戸本町一丁目(今の日本橋の橋近く)の間口9尺(2.7m)の小さな借り店舗に、呉服店「越後屋」(ゑちごや)を開業したのが始まりという。当時では画期的な商法「店前現銀売り(たなさきげんきんうり)」や「現銀掛値無し(げんきんかけねなし)」「小裂何程にても売ります(切り売り)」で名をはせた、さしずめ本邦初の流通改革というところだろうか。
その後大火(いわゆる振り袖火事)にあい、現在の場所(駿河町)に移し、通りを挟んで両替店(後の三井銀行)を併設した。(1683年)
明治になり「越後屋」呉服店は「三井呉服店」に、さらに1904(明治37)年には「三越呉服店」として銀行部門から独立、「デパートメントストア宣言」を行い、日本初のデパートとして歩み始めることとなる。
ちなみに「三越」とは三井家のと越後屋のからによる。

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三越本店(左)と三井本館(右) その間の道路が駿河通りである
 2008.1.6 インクペン・透明水彩

三越本店

 三越日本橋本店の原型は1915(大正4)年の「ルネッサンス式新館」落成からと思われる。鉄筋コンクリート地上5階、地下1階、日本初のエスカレーターを初め、エレベーター、スプリンクラー、全館暖房・・と最新設備を備えた近代百貨店としてスタート、「スエズ運河以東最大の建築」と称されもて囃された。 その頃完成した帝劇(旧)のパンフレットに「今日は帝劇、明日は三越」と、大正ロマン華々しい時代を謳歌している。

 そして1923年の関東大震災で焼失したが、1927年には三越ホール(現三越劇場)開設、増改築工事が完了した1935年には中央ホールが設けられ、パイプオルガンも設置された。この1935年からが現在の形の始まりで、その後、新館、新・新館と増築が続けられ現在に至っている。

呉服店が「デパートメントストア宣言」を行い(1904)、日本初の百貨店となってからはや100年以上、涙ぐましいほどの増築の歴史でもあったのだ。

設計は三井組嘱託の横河民輔。デパートを地域の文化施設(アミューズメントセンタ)にするという企画は、横河のアメリカ建築視察で得た知識を基にしたものと推測される。
 正面玄関には青銅製の一対のライオン像がある。これは、ロンドン、トラファルガー広場のライオン像を模して、原型落成時(1915)には設置されていたという。その正面玄関の上方、3階のバルコニーには商業の神様マーキュリーの像が金色燦然と輝いている。この像はイタリヤ国立フローレンス博物館所蔵のジョバニーダ・ポロニヤ作(1598)を模したもので、関東大震災復興時(1923)に設置されたという。まさに当時の舶来品崇拝と商売繁盛祈願を結びつけた熱意を感じる。

それにしても増築の醜さは、すぐ近くの高島屋が見事にやり遂げただけに気にかかる。それを隠すかのように夜の化粧(電飾)に精を出した下品な外壁なのだ。内部の仕掛けが見事なだけに惜しまれる。

三井本館

 旧・三井本館は三越と同じ横河民輔(鉄骨構造の第一人者)の設計によるもので当時としては珍しい鉄骨で補強されていた。竣工1902(明治35)年。
しかし関東大震災(1923)で崩壊、アメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン社の設計で、1929年に新本館が完成した。
典型的なアメリカン・ボザール様式の洋風建築で、外周を取り囲むコリント式列柱は巨大なもの。近くに寄ると圧倒されてしまう、権威主義の最たるものである。しかし夕闇が迫ると各柱脚からライトアップされて、重々しい建物も軽々と浮かび上がり、隣の「三越」のデコレーションケーキ的電飾と好対照となる。1998年には国の重要文化財に指定されている。

なお上階には「三井記念美術館」が増設され、右手に隣接す「日本橋三井タワー」の1階アトリウムが入り口となっている。この美術館は以前、中野区高田町にあった「三井文庫」に保管されていた三井家に伝わる美術品が、新たにできたこの美術館に移され常設展示されることになったとのこと。

昔その「三井文庫」を訪れたことがあったが、茶道具を初めとする日本の伝統的美術品が沢山あったのを思い出す。ユニークなのは切手のコレクションである。機会があったら再会したいものだ。

さらに付け加えておきたいことは、この本館の裏(御城から見たら表?)にあるのが、関東大震災でも壊れることもなく建っている「日本銀行本館」である。

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三井タワー

 「三井本館」を増築したように建つのが「日本橋三井タワー」で、地上39階建ての超高層複合ビルである。(2005年の竣工) 敷地を合併することで、容積率の有効利用を図ったものであろうと推測する。

sketch

天に聳える「三井タワー」と斜向いに建つ廃屋レストラン

2008.1.20 鉛筆・透明水彩

 高層階にはマンダリン・オリエンタル・ホテル・グループの「マンダリン オリエンタル 東京」が日本で初めてオープンするなど、日本橋地区のランドマークとなっている。 ここ日本橋地区は2004年にオープンした「COREDO 日本橋」(旧「白木屋」)、この「日本橋三井タワー」、さらには道路向かいの「第3三井ビル?」(工事中)へと、かつての老舗の街も大改造中である。

 すぐ近くには外壁ごと蔦に呑み込まれてしまったような店舗(右図)も、はや閉店状態である。マンモスビルが順々に呑み込んでいくのだろうか。

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今川橋<ここから先は町人町>

今川橋往来之図

 今では橋も川もないのだが、「昭和25年(1950)、堀は埋め立てられ、橋も撤去され、360年のその歴史を閉じた」と立て札にある。この堀(神田堀・別名神田八丁堀・龍閑川)が中央区と千代田区の境界になるのだが、神田の職人町と日本橋の商人町の境でもあり、江戸市中の商品流通の中枢としての役割が大きく、この橋の周辺では陶磁器を商う商家が建ち並び、大いに栄えていたとのこと。

なお、焼き菓子「今川焼」はこの地が発祥とのこと。


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