
![]() 日本橋は街道の原点 中央通り(新橋・銀座・日本橋)![]() 江戸は世界的にも大きな海上交通都市 <案内リスト> 都知事選・参院選等で大いに賑わせていた建築家・黒川紀章が先日(2007年10月12日)亡くなった。 彼は1960年代に日本で興ったメタボリズム運動の中心的メンバーで、とりわけ未来志向の建築家として菊竹請訓と共に活躍した人物である。 ・・・・・ 中央通りは、日曜祭日となると歩行者天国として車道を歩行者に開放している。(初期の頃は全区間解放されていたと記憶するが現在は主要部のみであるが・・) ・・・・・ 車道の真ん中を歩くと、高層化した建物も全体が見え、普段気が付かない街が発見できる。 繁華街・商業地には車はやっぱり似合わない!
旧新橋停車場 スタート地点はやはりここから。 ![]() 復元された旧新橋停車場 2007.11.4 鉛筆・透明水彩 1914(T3)年に旅客ターミナル駅の機能が新設の東京駅に移り、電車線の駅であった烏森駅が、新橋駅(2代目)となりかわった。 すぐ近くに臨海副都市線ゆりかもめの終点駅「新橋」があるのだが、なぜこの駅を活用できなかったのだろうか。再開発計画時にその土地の歴史を読み込んで計画すれば可能なことと悔やまれる。 中銀カプセルタワービルこの章の主役の建物。黒川紀章の若かりし頃の一貫したコンセプト「メタボリズム」を具現化した建物であるが、大阪万博を頂点とするその時代背景や流行が作ったとも云えるのではないだろうか。 ![]() 常に建て替え中の都市・東京。大動脈ハイウェーの傍らに違和感なく佇んでいる この建物が、取り壊すのか、はたまた保存するのか・・・で揺れている。黒川も亡くなる直前まで意気軒昂にメタボリズムの思想を説き、現代の要求に応えたカプセルに取り替えて保存すべきと主張していた。 個人的にはメタボリズムの記念碑的建造物として残しておいてほしい気持ちいっぱいであるが、区分所有された建物のこと、原爆ドームのような形で残されるより、住民の総意で現状よりリファインされた形のものに発展されんことを望み、期待したい。 ・・・・・ 都市の建物は、いったん区分所有されると決してあとに戻すことはしにくい。マンション企画者は個人に売りつけることだけを頭に描いているが、それはすなわち都市をスラムにしてしまうことに繋がると云うことを肝に銘じておくべきである。 中銀カプセルタワービル (そのご)浜離宮庭園の大手門口を出るとすぐ近くにこの建物がある。7年ほど前に当時はこの建物の存続で世間を賑わせていた。その建物も取り壊して新しい建物になると聞いていたが、いまだに当時のまま・・・というよりは、住民退去?で閑散とした姿となっていた。 ![]() 2014.9.13 鉛筆・透明水彩 地権者は細分化され、オリンピックインフレという難関にもぶち当たり?・・新たに建設できるのだろうか? スラム化しないことだけを願って前を通り過ごした。 ・・・・・ 静岡新聞・静岡放送東京支社中銀カプセルタワービルのすぐ近く、中央通りの反対側にこのビルが建っている。 ![]() この建物もハイウェーの傍らに立っている。その姿あたかも交通整理・監視している姿にも見える この建物完成当時はメタボリズム建築運動の真っ盛りな時期であるが、丹下の思想は「東京計画1960」を代表とする増殖していく都市像をイメージしていたはずである。前年(1966)完成の「山梨文化会館」も丹下が設計しているが、その建物は複数の円筒形シャフトが都市に建ち、空中でそのシャフトがフロアーで繋がっていく。いたってメガストラクチャー的な発想をしているのだ。そのシャフト1本だけが銀座の街はずれのハイウェー沿いにランドマークとして寂しく建っているのだと云えなくもない。 丹下はメタボリズムに影響を与えたことは確かなことだが、彼自身は決してメタボリストではなかったのだろう。この建物は黒川に影響を与えてはいても、カプセルタワーとは全く違った思想がベースになっているのだ。 交詢社ビルヂング・銀座ライオンビル中央通りも銀座6・7丁目あたりまでくると今話題のファッションビルが軒並み並んでいる。まさにピカピカな街並みなのである。そんな中に昔ながらの建物もがんばって存在している。その一つがこのライオンビル。その通りから西を望むとガラス張りの飾り箱のような高層建築が見える。それが昔から古色蒼然とした建物「交詢社ビル」の新装なった姿である。 ![]() 2007.11.11 鉛筆・透明水彩
銀座ライオンビヤホール (その内部)「現存する最古のビヤホール」というのがこの店のキャッチフレーズ。 ![]() 2014.9.13 鉛筆・透明水彩 内部はいたってクラシック。建設当初のままのインテリア! この日はジョッキで乾杯。スケッチもこれまで。
上記写真はサッポロライオン提供 銀座四丁目交差点ご存知、東京銀座のど真ん中。地下鉄が縦横に走り、ランドマークも一杯あって、待ち合わせ場所としてお馴染みの交差点だ。夕暮れになるとネオンサインやイルミネーション・ショッピングウィンドウが生き生きとしてきて、この街らしくなる。 ![]() 2007.11.11 鉛筆・透明水彩
京橋 と 日本橋 「京橋」という地名は日本各地にあるが、もちろん「京」とは京都のこと、京都につながる街道の橋の名前からだろう。 ここ江戸の「京橋」では「京橋川」があったが、現在は完全に埋め立てられ、頭上を高速道路が走っている。さしずめ高架橋が現代の「京橋」か?高速道路が天井川か?と云うところだろうか。 この地域は川(運河)が縦横に走り、お城と湾とを結ぶ商業地区としての要所で、商店・銀行が建ち並んだ所である。今ではセレブを顧客とした高級店(宮内庁御用達)が建ち並んでいるが、古い建物だけを選んでみたら、どちらも1933年の竣工であった。前述の服部時計店(1932年竣工)といい、ブルーノ・タウトが来日、東京で目のあたりにした『モダン』な建築とはこのようなものをいうのだろう。 ![]() 明治屋(左)と高島屋(右) 関東大震災後に建てられたアメリカンモダーン建築
川崎定徳本館・日本信託銀行本店(現・三菱信託銀行日本橋支店) 日本橋界隈は「三越」「白木屋(現・COREDO日本橋)」「高島屋」「丸善」等々有名老舗が集まっているが、その後ろ盾が周りの銀行。 この川崎定徳本館の前身は、男爵川崎八右衛門によって設立された川崎銀行・本店で、その銀行を中核企業として多方面の事業に進出、戦前の関東の十五大財閥の一つ「川崎財閥」となった。その財閥は戦後の財閥解体でいったん解散したが、現在は不動産会社「川崎定徳株式会社」として事業展開している。その総本山的建物がこの建物である。 (「定徳」とは川崎八右衛門を指すようなのだが、号か、戒名か、定かでない。) 家訓として「定徳主義」を掲げている。それは初代八右衛門の座右の銘であり、初代自らの言葉で 「足ることを知れば定徳あり」 ![]() 2007.11.11 鉛筆・透明水彩 元の建物は1927(S2)年に建てられたネオルネッサンス様式の旧川崎銀行本店(設計:矢部又吉)であるが、旧建物の外壁を解体、再構築して新建物に再使用し、記憶の継続を設計に盛り込んでいる。なおファサードのコーナー部分は明治村に移設保存してあるとのこと。(未確認) ![]() 在りし日の本館 旧建物の列柱の柱頭2本分を裏表に合わせて新な独立円柱の柱頭に仕上げ、前面道路側に開放した柱廊(colonnade)を構成している。また正面入口の装飾(aedicucule)は、その部分だけをそっくり利用して正面のガラスファサードに嵌め込んで据え付けている。
それとも どちらにしろ新旧建物の掛け合いが面白い。 八右衛門は千葉県水戸出身からか、本店と同じ設計者の手で千葉支店、佐倉支店、佐原支店等、千葉県内に多数の支店を設けている。 設計は坂倉建築研究所、完成は1989年。 第32回 BCS賞(建築業協会賞)受賞(1991) 日本橋この橋は、1603年に江戸幕府を開いた徳川家康の全国道路網整備計画に際し架けられたもので、1604年には五街道の基点とされた。焼失などで度々架け替えられているが、2007年現在のものは第19代日本橋で1911年に架けられた石造二連アーチ橋である。 ![]() 「日本橋雪晴」 当初の様子は富士山を遠景とした木造太鼓橋の浮世絵でも偲ばれるが、当時の江戸は世界的にも希に見る水上交通の発達した大都市で、諸地域から運ばれてきた物産で賑わい、商業・経済の中心地であった。 この日は、ここまでたどり着くと、かなり日が暮れてしまった。またこの時期には珍しい小雨となって、なんともブルーな気分になったのだが、いや・・・この橋の環境がその気分にさせているのではなかろうか。 ![]() 右奥に見えるのは安井武雄の設計による野村證券ビル(1930年築) この石橋の装飾は緑青を吹いたブロンズで、その色に合わせたような高速道路。 さらには、その低さがなんとも陰鬱な橋にしてしまっているのだ。 三井財閥の牙城![]() 「江戸百景 駿河町」 現在の日本橋三越本店と三井本館が並ぶ駿河町通りは三井グループの本拠地である。 ![]() 三越本店(左)と三井本館(右) その間の道路が駿河通りである 三越本店三越日本橋本店の原型は1915(大正4)年の「ルネッサンス式新館」落成からと思われる。鉄筋コンクリート地上5階、地下1階、日本初のエスカレーターを初め、エレベーター、スプリンクラー、全館暖房・・と最新設備を備えた近代百貨店としてスタート、「スエズ運河以東最大の建築」と称されもて囃された。 その頃完成した帝劇(旧)のパンフレットに「今日は帝劇、明日は三越」と、大正ロマン華々しい時代を謳歌している。 そして1923年の関東大震災で焼失したが、1927年には三越ホール(現三越劇場)開設、増改築工事が完了した1935年には中央ホールが設けられ、パイプオルガンも設置された。この1935年からが現在の形の始まりで、その後、新館、新・新館と増築が続けられ現在に至っている。 呉服店が「デパートメントストア宣言」を行い(1904)、日本初の百貨店となってからはや100年以上、涙ぐましいほどの増築の歴史でもあったのだ。 設計は三井組嘱託の横河民輔。デパートを地域の文化施設(アミューズメントセンタ)にするという企画は、横河のアメリカ建築視察で得た知識を基にしたものと推測される。 それにしても増築の醜さは、すぐ近くの高島屋が見事にやり遂げただけに気にかかる。それを隠すかのように夜の化粧(電飾)に精を出した下品な外壁なのだ。内部の仕掛けが見事なだけに惜しまれる。 三井本館 旧・三井本館は三越と同じ横河民輔(鉄骨構造の第一人者)の設計によるもので当時としては珍しい鉄骨で補強されていた。竣工1902(明治35)年。 なお上階には「三井記念美術館」が増設され、右手に隣接す「日本橋三井タワー」の1階アトリウムが入り口となっている。この美術館は以前、中野区高田町にあった「三井文庫」に保管されていた三井家に伝わる美術品が、新たにできたこの美術館に移され常設展示されることになったとのこと。 昔その「三井文庫」を訪れたことがあったが、茶道具を初めとする日本の伝統的美術品が沢山あったのを思い出す。ユニークなのは切手のコレクションである。機会があったら再会したいものだ。 さらに付け加えておきたいことは、この本館の裏(御城から見たら表?)にあるのが、関東大震災でも壊れることもなく建っている「日本銀行本館」である。 三井タワー「三井本館」を増築したように建つのが「日本橋三井タワー」で、地上39階建ての超高層複合ビルである。(2005年の竣工) 敷地を合併することで、容積率の有効利用を図ったものであろうと推測する。 ![]() 天に聳える「三井タワー」と斜向いに建つ廃屋レストラン 2008.1.20 鉛筆・透明水彩 高層階にはマンダリン・オリエンタル・ホテル・グループの「マンダリン オリエンタル 東京」が日本で初めてオープンするなど、日本橋地区のランドマークとなっている。 ここ日本橋地区は2004年にオープンした「COREDO 日本橋」(旧「白木屋」)、この「日本橋三井タワー」、さらには道路向かいの「第3三井ビル?」(工事中)へと、かつての老舗の街も大改造中である。 すぐ近くには外壁ごと蔦に呑み込まれてしまったような店舗(右図)も、はや閉店状態である。マンモスビルが順々に呑み込んでいくのだろうか。 今川橋<ここから先は町人町>![]() 今川橋往来之図 今では橋も川もないのだが、「昭和25年(1950)、堀は埋め立てられ、橋も撤去され、360年のその歴史を閉じた」と立て札にある。この堀(神田堀・別名神田八丁堀・龍閑川)が中央区と千代田区の境界になるのだが、神田の職人町と日本橋の商人町の境でもあり、江戸市中の商品流通の中枢としての役割が大きく、この橋の周辺では陶磁器を商う商家が建ち並び、大いに栄えていたとのこと。 なお、焼き菓子「今川焼」はこの地が発祥とのこと。 Mozilla, Chrome, Opera & I.E. に対応(20150123) |
|問合せ |
copyright©2004-2016 Capro All Rights Reserved
このサイトの掲載記事、図、音源などの無断転載を禁じます。著作権は《きまぐれスケッチ》《Capro》またはその情報提供者に帰属します。