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東京中央郵便局


 東京駅丸の内側に降り立つと、目の前の丸ビルも、旧国鉄本社ビルも、この数年で超高層の建物に建て替えられた。しかし東側に目を転ずるとなんの変哲もないだだっ広い建物が建っている。
そう、これが1931年(昭和6年)に完成した東京中央郵便局だ。開局以来日本の重要な中央郵便局として知られているが、最近の民営化による合理化が叫ばれて、高層ビルに建て替える案が進行中である。

その後の東京駅と中央郵便局の姿はこんな形で昔の形をとどめている・・・が、デザインとは何か!と考えさせる。

sketch

東京駅から「正面」を望む 2007.11.04 鉛筆・透明水彩

 日本を代表するビジネス街、丸の内地区は1890年(明治23年)に丸の内一帯の払い下げがもとで、現在の中心地より少し南寄りにトンガリ屋根やドームを冠した赤煉瓦のヨーロッパ風建物が軒を連ね、「一丁ロンドン」と呼ばれた街から始まった。
その後、そこからはずれた皇居正面に至る「行幸通り」沿いに、1907年(明治40年)「東京海上ビル」、1912年(大正元年)「丸ビル」、「日本郵船ビル」と相次いで近代的なビル群が姿を現した。フロア重視のアメリカ式のオフィスビルであったため、「一丁ニューヨーク」と称された。そんな中に赤煉瓦の東京駅も1914年(大正3年)に開業している。

 そして、1931年(昭和6年)に東京中央郵便局は完成した。大阪中央郵便局(1939年竣工)の設計者としても知られる吉田鐵郎の設計である。

「恋の丸ビルあの窓あたり、・・・」(東京行進曲、作詞:西条八十、作曲:中山晋平)と、当時(昭和4年頃)の職業婦人も歌に登場するほどの、日本でのモダーンな最先端ビジネス街であった。
当時のモダーンとはアメリカンモダーンで、そのルーツであるヨーロッパ大陸の文化に囚われたものであり、建築においても鉄とコンクリートという最先端材料を使用していても、石積みの壁を主たる構造体と意識し、ヨーロッパの伝統・様式を簡略化した発想は変えようがなかった。

 そんな中にこの郵便局は鉄・コンクリート・ガラスという最先端材料でも、日本古来の柱と梁による架構を採り入れ、それを外観にまで表現した。同時代の新建築を代表するコルビュジェやグロピウスのインターナショナルデザインとは一線を画した、日本の新時代のデザインなのである。今から見たらなんの目新しさは感じさせないが、現在の日本の建物の原型であるが故にそう感じることであって、まさにパイオニアとしての記念碑的建造物であるのだ。
完成間もなく来日(1933年)したブルーノ・タウトは東京に来たそのときから「不毛な東京」と貶しているが、この建物だけはそのデザインの独自性を認めて「モダニズムの傑作」と讃えている。

【タウトの日記から】 東京の印象・建物の酷評

階ごとにプロポーションが微妙に調整されたファサード
 

 

 駅前広場に面した広大な敷地に建つ建物の外観が単調なものにならない工夫がファサードを見るとよく分かる。一階の階高は6.5メートル(通常の2階分)もあるが、駅前広場の外部空間と広く見通せる内部空間から割り出した寸法だろう。
単純な五層構成ではなく、最上階はパラペットで階高が大きく見えるのを4階のコーニスで切り返し、外観は上部に行くに従い小さくなるよう、充分に熟慮されたプロポーションで窓割りされている。
そして サッシはまさに日本の間戸(まど)で、障子戸にも想像させ、当時のモダーン建築では最先端とも云えるデザインのものだ。

・・・・・

 郵政民営化で、高容積率である敷地の有効利用を図ろうとのことであろう、周囲と同じような超高層計画が企てられていると聞く。しかし郵便局が、にわかに不動産業を始めたとしても、当初は(民営移行過渡期の税制上の優遇もあることだろうから)運営できても到底うまく続けられるとは思えない。経営不振となればチャンス到来と、それを狙っている裏の力の企みか?と疑いたくもなる。

 東京駅は建設当初の姿に復元作業中であるが、その資金は近隣ビルへの余剰容積率の譲渡によるものである。日本郵政もこんな方法も参考にして、民営化に浮かれてないで堅実な経営をしてほしいものだ。そしてその結果は、○○ランドのような一時的にピカピカした客寄せの姿でなく、その地域の過去から未来に伝えていく文化の橋渡しする建物であって欲しい。

 民営化したら営利第一主義で、文化的資産ではなくなるとしたら悲しいことだ。

吉田 鐵郎(よしだてつろう)
 1894年5月18日 - 1956年9月8日 日本の建築家。

逓信省で多くのモダニズム建築を設計した。
富山県出身。旧制四高を経て、1919年東京帝国大学建築学科を卒業。逓信省営繕課に入った。逓信省には同時期に山田守らの俊英が在籍していた。
初期はドイツ表現主義やエストベリなど北欧建築の影響を受け、後にモダニズム建築の傑作を生み出した。
第二次世界大戦中は故郷に戻り、終戦後、日本大学で教壇に立った。
病気のため、辞任。
脳腫瘍に侵され寝たきり状態の中、『Der japanische Garten』『スウェーデンの建築家』などを口述で著した。
ドアノブに触れないほど神経質であり常に消毒液を持ち歩いていたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(抜粋)


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