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博物動物駅
博物館動物園駅
(京成電鉄の駅であったが現在は閉鎖されている)

「博物館動物園駅」界隈


 この駅は上野公園からはちょっと離れているので普段はあまり目にしないが、国立博物館の広大な敷地の南西交差点にある京成電鉄の地下駅入口である。いや、現在は閉鎖された駅の入口である。
この交差点を中心にして時計回りに見渡すと、南から旧東京音楽学校「奏楽堂」、東京芸大校舎、黒田記念館、旧国会図書館(現国際子供図書館)、そして国立博物館等々・・・・・
日本の文化を代表したであろう建物が勢揃いしている。

実はこの駅は私にとって特別の思いがある。子供の頃に降りたことはないはずの記憶・・・

この地下駅前が動物園の地下入口である。そのコンコースは鍾乳洞のようでもあり、オオオニバスの大きな葉の浮かぶ池や沼が続いている。 あちこちに蝶の羽のように開いた天窓からは蔦が垂れ下がり、仄かに外光が差し込む。 まるでジャングルの中を進んでいくようだ!

 その夢から目が覚めると必ず熱が出ていて、学校は休むことになっていた。

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上野公園とその周辺はかつての寛永寺境内だった
(マークにマウスを乗せると説明が出ます)

京成電鉄・旧・博物館動物園駅 旧東京音楽学校・奏楽堂 黒田記念館 国際こども図書館 東京国立博物館(旧東京帝室博物館) 旧因州池田屋敷表門 国立科学博物館 旧本館 寛永寺 旧本坊表門 上野東照宮 上野大仏 時の鐘 清水観音堂 徳川家綱霊廟勅額門 擂鉢山

 というわけで、私にとっては忌まわしい建物なので、それから半世紀に渉って寄りつかない場所であった。
数年前に旧国会図書館がこども図書館として再生されたのを機にこの駅の前を通ることになり、昔からの拘りにも払拭することが出来た。


京成電鉄・旧・博物館動物園駅

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旧京成電鉄・博物館動物園駅 2006.05.04 鉛筆・透明水彩

 現在の京成電鉄は上野駅を始発として次の停車駅は日暮里駅となり、そこまでは地下を進んでいく。しかし以前はこの「博物館動物園駅」とその次の「寛永寺坂駅」があったが現在は両駅とも封鎖されている。
 駅開設(昭和8年)時の博物館は関東大震災の被害を受けて閉館状態である。被害を受けてない現・表慶館(帝室美術館)は日本最初の本格的バロック建築として異彩を放った建物と想像する。その最寄り駅として、それを意識した当時の精一杯のデザインということだろう。(当時は国の威信をかけた国会議事堂の建設中である。)

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旧東京音楽学校・奏楽堂

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奏楽堂 2007.01.27 鉛筆・透明水彩

 この建物の前は鬱蒼と茂った樹木の公園だったが、その立木はことごとく取り除かれ、新しい装いに変身中であった。そのため公園の仮囲いを避けての建物間近に構えたスケッチ。
内部については「
」参照。

 ところで最近の公園は徹底的に手を加えて明るい環境にしたものを多く見うける。 大きな樹木は伐採され、遊歩道は幅広く舗装がなされ、植栽部分はプランターで取って代わる。 街路灯と列んで日夜監視するカメラも設置されるに及んでは目的は何なのかと疑念を持ってしまう。 きっとここもそうなるのだろうが一寸考え込んでしまうことだ。

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黒田記念館

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黒田記念館 2007.01.27 鉛筆・透明水彩

画家黒田清輝の代表的な作品を展示している。建物は鉄筋コンクリート製だが、煉瓦造りのような古びた外観で、東京都選定歴史的建造物にもなっている。
正式名は「東京国立文化財研究所美術研究室」で通称が「黒田記念館」。 設計は岡田信一郎

黒田記念館HPより抜粋引用

 日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13(1924)年に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3(1928)年に竣工したのが黒田記念館です。
館内には、遺族の方々から寄贈された遺作を展示して画家を顕彰するために黒田記念室が設けられました。昭和5(1930)年には、同館に美術に関する学術的調査研究と研究資料の収集を目的として、現在の東京文化財研究所の前身である美術研究所が設置されました。この館で永らく業務をつづけてまいりましたが、平成12(2000)年、新庁舎が竣工し、現在では当研究所の業務は、この新しい施設でおこなわれています。そのため、同記念館を再利用することになり、昭和初期における美術館建築(岡田信一郎設計)として貴重なものであることから、創建当初の姿に復することとし、2階部分を中心とする改修の後、平成13(2001)年9月にリニューアルオープンいたしました。
改修にあたっては、同記念室にくわえてギャラリーを増床し、これまで以上に充実した内容で作品を鑑賞していただけるようになりました。なお、同記念室では、黒田清輝の油彩画126点、デッサン170点のほか写生帖、書簡などを所蔵しています。(引用終わり)

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国際こども図書館

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左側のブロックが昭和の増築、中央の突き出した所が平成のもの 2007.01.27 鉛筆・透明水彩
右上図:建物裏側の空中ガラスギャラリーから既存外壁窓を見たもの
ペリアンチェアが印象的 2002.08.11

 この建物は、通称「上野図書館」と呼ばれてきた「国立国会図書館支部上野図書館」の建物を再生・利用したものだ。 1906年(明治39年)に「帝国図書館」として建てられ、1929年(昭和4年)に増築され、さらに2002年(平成14年)に改修をおこない現在の「国際こども図書館」となった。

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増築の過程

 この変遷を調べてみると大変面白い。最初の帝国図書館は「ロ」の字形に広い中庭のある壮大な建物として計画されていた。
工事期間は日露戦争中(1904〜05)のことと推測されるので、そのための資金難からか当初計画からは大幅に縮小され、辛うじて片側面(現在の正面のさらに一部)だけを完成させている。(濃灰色)
 昭和の増築は大戦景気から一気に関東大震災(1923)、金融恐慌(1927)という困難な時代に突入、辛うじて現在の正面の形に。(薄灰色)
 そして平成の改修では、そうした先人達の困難・苦労を刻んだ建物を保存・修復し、現代を代表する材料である鉄とガラスで動線を組み替えることにより見事に蘇った。
赤色部分は1階ガラス・アクセスゾーン。
緑色部分は3階空中ガラスギャラリー。

 新旧の建物を対比させるこの手法は大いに活用したい手法だ。

 改修の設計は安藤忠雄と日建設計

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東京国立博物館(旧東京帝室博物館)

本館(日本ギャラリー)

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博物館本館 2005.04.30 鉛筆・透明水彩

 この建物は、1923年(大正12年)の関東大震災で破損した旧本館にかわって昭和13年に建てられた。  設計は「東京帝室博物館建築設計図案懸賞募集」の一等当選案(渡辺仁案)を原案とし、宮内省内匠寮が実施設計。
 コンクリートの建物に瓦の屋根を乗せた「帝冠様式」の代表的な建物で、当時の風潮を表した建物。 バウハウスを初めとしたモダニズム建築に対向して「日本趣味を基調とする東洋式」と称する建築様式として持て囃したものだが、この国策文化ほど怪しいものはない。
 案の定、その後の我が国は不幸な時代に突入してしまった。

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旧因州池田屋敷表門(通称:黒門)

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黒門 2007.01.27 鉛筆・透明水彩

 この近くに来てもいつも無意識に通り過ぎてしまう建造物なのだが、今回、新たな大発見をした。 豪壮な構えをしている。 本郷の赤門に対比されるものとのこと。 故事来歴は下記を参照していただくとして、その変遷が凄まじい。 これだけ立派だと引く手数多、その箔ある経歴で処分なんて考えられないと云うことか。 経済原理で存在していないところが嬉しい。
 背後に見えるドーム屋根の建物は「表慶館」で明治末期の日本最初の本格的バロック建築だが、こんなアングルで重ねて見てみるのも面白い。

表示板より

旧因州池田屋敷表門(黒門)(くろもん) 重要文化財

 この門は、もと因州(現在の鳥取県の一部)池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていたが、明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移築された。のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。表門は昭和29年3月、さらにここに移築して修理を加えたものである。創建年代は明らかでないが、形式と手法から見て、江戸時代末期のものである。屋根は入母屋造、門の左右に向唐破風造の番所を備えており、大名屋敷表門として最も格式が高い。

昭和26年9月、重要文化財に指定。

国立博物館内のその他の建物

・東洋館(アジアギャラリー)・表慶館・平成館・資料館・法隆寺宝物館 等々 この博物館敷地内だけでも多数の建物が新旧取り混ぜて建っている。 また一寸範囲を拡げてみればユニークな建物は目白押しなので、時々来ては時間を掛けて廻ってみたいものだ。

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国立科学博物館 旧本館

 この暑い時期、東京都美術館でFermeer展が催されている。シルバーデーのこの日に特権行使で観覧後、画学生が大勢集まって描いていたこの建物を脇で描いてみた。

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ナガスクジラが飛び跳ねている国立科学博物館 2008.08.20 鉛筆・透明水彩

 今まで何度となくこの脇を通ることはあっても、「大きな鯨の建物」程度の印象しか持ち合わせてなく、せいぜい小学生だった頃の見学で、大きな振り子(フーコーの振子)があった記憶しかない。
記憶ついでにもう一つ述べると、現在屋外展示されているナガスクジラの模型はかつては白骨化した骨の展示ではなかっただろうか? さらに不確かなことだが、この建物の傍で発掘されたものと記憶しているのだが・・・そう、この地(お山)は遺跡の山なのだ。

 現在の上野公園は、高台全体と南に面する不忍池までがかつての寛永寺境内で、明治になってから寛永寺を北隅に追いやり、公園や学校・博物館を建てたのだ。そのため公園内からは寛永寺の付属施設跡が沢山あるわけで、そればかりか、はるか昔の古墳時代からは竪穴住居跡や埴輪片が、さらに昔の弥生時代からも竪穴住居跡が発見されているという。地形的に良い場所というのは普遍だということだろう。

 国立科学博物館の創立は明治10年(1877)で、当初は神田・湯島聖堂にあったとのこと。現在の建物自体は昭和5年(1930)の完成で、上空から見ると、当時の科学技術の象徴であった飛行機型のデザインをしているのが特徴で、上の地図からも確認できる。設計は文部大臣官房建築課(文部省営繕部)である。
平成15年(2003)に新館(設計:芦原建築設計研究所)が新たに造られたが、創立130年という節目にあたる2007年4月17日、かつての本館をリニューアルし、「日本館」としてオープンし、新館は「地球館」と改められて展示が行われている。

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寛永寺 旧本坊表門(通称:黒門)

科学博物館を描いた後、いつもは通らない日本学士院前を通り掛かったら、大きな黒い門を見つけた。
見事な八脚門である!・・・のか?・・・イヤ、ちょっとおかしい。

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旧本坊表門(通称・黒門) 2008.08.20 鉛筆・透明水彩

 大変珍しい門の形式である。薬医門の変形だろうか、「正面三間の薬医門」?いや「両袖潜戸付薬医門」と呼べばいいのだろうか。

「薬医門」とは、門の建築様式の呼び名で、扉を支えている本柱とその後ろの控柱の中間に屋根の棟の位置を置いた形式である。最大の特徴は往来を妨げないために扉が無いのが本来の形で、扉があってもその縦軸受けは唐居敷(唐石敷)で、敷居を設けておらず、閂も通さない。鎌倉・室町時代に、武家や公家屋敷、さらには寺院、医師の家にと広まった。
 ここでは棟の位置を本柱側に寄せて、正面から見ると軒が深いため、門はゆったりとして威厳がある造りとなっている。 屋根は切妻瓦葺で、偏平な本柱(3尺×2尺)2本と脇柱(2尺×2尺)を前方に並べ、連ねる冠木を乗せ、控柱(2尺角)4本を後に配し、その上に梁と桁を架け渡している。前方は梁先を持出してその上に三手先組に出桁を乗せ地垂木を配している。棟は本柱と控柱の中央より前に位置しており、正面三間の薬医門となっている。冠木端や上部、妻壁には天皇家紋(十六弁菊)を配して、主要柱上下端には金物で装飾されている。この金物と潜り門上部の板には金箔が貼られていたと思われ、荘厳・華麗な造りである。

     スケッチ中に、境内を閉めるために出てきた住職の話で、この寺(輪王寺)や門の由来、天皇家の紋章が付いている理由を伺うことが出来た。

  • 寛永年間の建造物で、当初は現上野公園の中心部大噴水あたりが根本中堂(本堂)の場所であった。(上野広小路あたりからが参道となる)

  • 本坊は現国立博物館の場所でその正門がこの門であった。当初は中堂は建てられてなく、本坊がその役を担っていた。(門の位置は現博物館正門あたりか)

  • 天海入山後、三世貫首に後水尾天皇第3皇子の守澄法親王が寛永寺貫主となり、以後、幕末の15世公現法親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた。(このことが天皇家の紋章が付いている理由)

  • 幕末の慶応4年(1868年)には彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となって主要な建物は焼失したが、この表門も広小路あたりからの大砲の弾丸を受けて、大扉に傷が残っていること。

  • そして明治維新後、境内地は没収、寺は廃止状態に追い込まれ、この本坊表門が現在の場所(輪王殿)に移築されたということ。

「上野のお山」は「未知の山」であることを実感した。

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上野恩賜公園

 上野公園は音楽会や展覧会に行っても、その後はさっさと通り過ごしてしまうのが通常の私の行動である。しかしその公園の中にはかつての歴史が沢山埋もれていて、それを少しでも見つけ出してみよう。

旧上野恩賜公園

 江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永2年(1625)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応4年(1868)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治6年1月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
 恩賜公園のいわれは、大正13年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万平方メートル余り。
 上野公園生みの親がオランダ人医師のポードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観の良さから、公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。

(西郷隆盛像の傍らに掲げられた「みちしるべ」より)

上野東照宮

 日本全国に東照宮という名称の社は多く見られるが、ここ上野東照宮は寛永4年(1627)に寛永寺境内に勧請されたもの。
 江戸には江戸城内紅葉山に将軍家専用のものと、一般庶民は参詣できない上野東照宮(東照社)、そして一般庶民も参詣できる浅草寺境内の浅草東照宮(東照社)が造営されていた。その浅草の建物は寛永19年(1642)に焼失し、これに代わる東照宮が必要とされた。家光によって慶安4年(1651)に庶民も参詣できる東照宮として再建されたのが現在の上野東照宮である。なお東照宮という名称は正保2年(1645)に朝廷から「東照宮」の宮号を賜ったことから始まる。

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参道入口の大鳥居と茶店 2009.2.18 鉛筆・透明水彩

 この大きな石造の鳥居が上野東照宮への入口。参道中程には、戦後の日中友好を記念した「ぼたん苑」もある。(上野東照宮と境内建物については「」参照)

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上野大仏

 大鳥居を通り過ごして南に行くと、小高い丘に出会う。かつて「大仏山」と呼ばれた丘である。その名のとおり大仏(釈迦如来坐像)があったそうだ。しかし今あるのはインド風パゴダ。なんでパゴダなのだ!

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 2009.7.1 鉛筆・透明水彩

 このパゴダ(仏塔)は昭和42年(1967)に上野観光連盟が上野名物にするために建てられたもので、内部に安置されているのは「薬師三尊」。 この薬師三尊像は東照宮境内にあった薬師堂の本尊だった。東照大権現(徳川家康)の本地仏は薬師如来とされていることから薬師堂が建てられている。 寛永16年(1639)に薬師堂は焼失、さらには明治の神仏分離令により東照宮から切り離されると三尊は寛永寺で保管されることになる。それをようやく昭和の時代になって、上野東照宮を見下ろす高台に、安置されたと云うわけである。

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かつての大仏(空想)と保存されている顔面部分 2009.7.4 鉛筆・透明水彩

 上野大仏の空想画である。 寛永8年(1631)、堀直寄の寄進で最初の大仏が造られた。以後、地震、火災等で消滅と再興を繰り返している。上野戦争の時点では大仏殿も焼かれることもなく、大仏はその中に鎮座していたが、その後建物は焼滅して露座の大仏となり、大正の大震災では首が落ち、先の大戦中では顔を除いて供出され、現在はその顔の部分のみを大仏山パゴダ脇に保存、展示されている。

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時の鐘

 

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 2009.7.1 鉛筆・透明水彩


 上野公園内、精養軒の近くにある鐘楼。現在でも現役で、定時に鐘が鳴るとのことだが未確認。

時の鐘

花の雲 鐘は上野か 浅草か

 芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。  時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永三年(1626)になって、日本橋石町三丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。  初代の鐘は、寛文六年(1666)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後、天明七年(1787)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳直されたものが、現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には、「天明七丁未歳八月」、下に「如来常住、無為変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。  現在も鐘楼を守る人によって、朝夕六時と正午の三回、昔ながらの音色を響かせている。  なお、平成八年六月、環境庁の、残したい「日本の音風景100選」に選ばれた。

平成八年七月

台東区教育委員会

(かたわらの掲示板より)

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清水観音堂(きよみずかんのんどう)
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 2009.7.1 鉛筆・透明水彩

名所江戸百景
「上野清水堂不忍ノ池」広重

 天台宗東叡山寛永寺を開いた慈眼大師天海大僧正が、寛永8年(1631)に京都清水寺を模して創建したものである。

 最初の観音堂は現在地より100メートル程北の、現・東京文化会館近くの寂しい丘(擂鉢山)に建てられた。参道から見ると左手(西)の大仏山に対して右手(東)に位置する山で海抜23mという擂鉢を伏せたような丸い小山である。かつては古墳だったようで弥生式土器も出土したそうだ。
元禄7年(1694)には現在の場所に移築されたが上野戦争、関東大震災、東京大空襲と幾多の災害にも焼失することなく現在に至っている数少ない建物の一つである。 舞台は不忍池に面していて正面は弁天島のはずだが、現在では樹木が茂っていてその様子は分からない。
昔から花見の名所として浮世絵にも描かれる著名な景観である。左の広重の絵には舞台柱脚が高く描かれてあるが、かつてはそうだったのだろうか?現在とは全く違う。
本尊は千手観音座像で京都清水寺より奉安したもので、毎年二月の初午の日だけ開扉され、多くの参詣者が訪れるという。スケッチした日は外人観光客で賑わっていたが、浅草と並べて東京の観光コースになっているようだ。それに引き替え日本人の私にとっては初めての訪問であった。

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徳川家綱霊廟勅額門

 国立博物館の建っている場所はかつての寛永寺中心部(本坊)があった所である。そのすぐ裏側にこの門があり、その中は徳川家の墓地となっている。

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 2008.7.20 鉛筆・透明水彩

 かつて輪王寺住職に、徳川歴代将軍の墓所は(初代家康と三代家光は日光に祀られているが)上野寛永寺か芝増上寺のどちらかに葬られていると伺ったことがある。江戸の霊廟は先の大戦でほとんどが焼滅してしまったが、辛うじて残されたのが第四代将軍家綱のこの門と、やはりこの近くにある第五代将軍綱吉の常憲院霊廟勅額門である。NHKドラマで有名になった「篤姫」も家定の傍らでここに眠っているはずである。

徳川家綱霊廟勅額門(重要文化財)

台東区上野桜木一丁目十六番

 四代将軍家綱は、慶安四年(1651)四月に父・家光の死に伴って、わずか十才で将軍の座につき、延宝八年(1680)五月八日に三十九才で没した。法名を厳有院という。
 病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、特に後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起った由井正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
 家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅使門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災いを免れた貴重な遺構である。勅使門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
 なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅使門は昭和三十二年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅使門であったものを転用したものと考えられる。

平成六年三月

台東区教育委員会

(かたわらの掲示板より)



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