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神田川の要衝、万世橋と旧万世橋駅

神田川


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柳橋から上流を見る 2011.01.23

神田川河口

 2年ほど前、隅田川沿いのテラスを歩いて知った神田川河口。両国橋のすぐ傍に神田川河口があった。そのとき覗いたスケッチが右の絵で、その川の最下流は「柳橋」が架かり、屋形船がぎっしり浮かんだ、生活の香りいっぱいの魅力的な町だった。
 この先は「浅草橋」であり「萬世橋」「聖橋」も架かる大都心部を貫く川である。探検気分でいつかここを通り抜けてやろう、と思っていた。
 その川を冬になる前にちょっと歩いてみた。

柳 橋
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右岸から柳橋を望む 2012.11.16

 隅田川に合流する場所に架かるこの橋はこぢんまりとしたタイドアーチ橋で、海から川に入る舟の神田川へのゲートとなる橋である。水位と地盤面との差がなく、まわりは狭く、舟の行き来が多いこの場所だから必然的にこの形式が選ばれたのだろうが、虹の架け橋を連想させて好もしい。しかしこの橋は江戸時代の華やかなこの地の花街を知るべくもなく、関東大震災の復興事業で架けられたものである。

浅草橋
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右岸から浅草橋を望む 2012.11.16

 柳橋の先は釣り船、屋形船がいっぱい並んでいる

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浅草橋から柳橋を望む 2012.11.16

 川岸に沿って立ち並ぶ小屋は船宿?で、その下には沢山の屋形船が舫っている。

左右衛門橋

 河口から沢山見られた屋形船は浅草橋を過ぎるとピタッと無くなってしまった。浅草橋までは両岸を歩くことが出来たが、それを過ぎたら、右岸(南側)だけになってしまった事と関係があるようだ。

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左右衛門橋から浅草橋を望む 2012.11.16

 そしてこのスケッチポイント左右衛門橋から先は両岸とも歩行は不可能となってしまった。これでよく分かったこと、川に背けた建物ばかりでは決してきれいな川にはならないこと。川が都市の排水処理施設でしかなっていない。
 さて?北側に舫ったボートはどうして出来たのだろう?

美倉橋

 浅草橋からこの橋までみな申し合わせたように同じ形式のヒンジアーチ橋である。震災復興橋として同時期に架けられたものなのだろう。狭い川幅に対して橋端が低くなる橋の形式が舟の往来をし難くしているのだろうか。もはやこの辺りでは停泊するボートが見当たらない。もちろん両岸には歩道もないから・・・・。

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 2012.11.16

 これまでの橋には見られない親柱の見事さ!昭和初期のモダニズムも感じさせる歴史を今に伝えている。橋詰めには瓦葺の小粋な公衆トイレが用意されていて、この橋が町中で愛されているようだ。しかし川の両岸は相変わらず歩道はなく、建物が川を背いた景色が続く。そしてこの橋のすぐわきに架かる水道橋が川の景色を塞いでいる。

和泉橋

 とうとう昭和通りにまで来てしまった。このあたりは岩本町三丁目。

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橋の袂の柳の木 2012.11.16

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明治の和泉橋 K.Nagahara 1884.5.5

 このスケッチは最近(2/21)着色したもの。
このところの寒さが、これ以降のスケッチを躊躇させている。
 さて、この広い通り(昭和通り)は関東大震災以降に拡幅された道路であることは有名だが、それ以前の風景は?というと、右図のような光景だったようである。長原孝太郎が明治17年(1884)に描いたもので、当時の景色と比べたら、考えられないほどの変わりようである。橋は当然木製で、大きな柳の木も見られる。そしてこの土手は「柳原土手」と呼ばれていたようである。そのへんの事情は橋の袂に説明看板が掛かっていたので、一読をお薦めします。(下記参照)
 現在の橋は高層建物の隙間を縫うように走る高速道路が上空を覆っていて道幅も広く、当時の人からは考えられない事だろう。しかし川は当時と変わらず流れてる。

 江戸時代、この界隈を流れる神田川の土手は、柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。岩本町周辺は、江戸城から見れば鬼門(北東方向)にあたります。柳森神社(現・神田須田町二丁目)の社伝によれば、太田道潅が鬼門除けに稲荷を祀り、柳を植えたのが始まりといわれています。
 そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本などの武士たちでした。江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。
 その伝統は、明治維新後も引き継がれました。明治十四年(1881)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには四百軒もの古着屋が軒を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると、町内こは四階建てのピルまで登場し、「和泉橋ダンスホール」が併設されました。
 このように洒落て小粋な雰囲気を醸していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後、この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショーウィンドーを飾るようになりました。
 現在、数こそ減ってきましたが、岩本町三丁目をささえ、町の礎を築いてきたのは、こうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町、それが岩本町三丁目なのです。

(橋の袂の説明板より)

ちょっと休憩 (余談)

 神田川の和泉橋の続きです。地下鉄「岩本町駅」から地上に出たら、このあたりは有名な「服の町」なので、神田川を離れてしばらく町をうろついてみた。

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交差点に建つ小料理屋 1013.3.8

小伝馬町

 岩本町から馬喰町・横山町・小伝馬町と方向感覚がなくなってしまう散歩になってしまった。今流行の番号制(何丁目)でなく、昔を想像させる町名はいいものだ。
そんな時に行き着いたのがこのお店の前。周りは耐火・不燃の建物ばかりだが、この角に建つ一軒だけが昔ながらの木造建物。階高がえらく少なく、木造で3階?いや、屋上に突き上げている屋根を見ると4階建て?とも推測できる建物である。これ以上のコメントは差し控えよう。




(本題に戻ろう)


万世橋と旧万世橋駅

 中央線・神田駅〜お茶の水駅間に「万世橋駅」があったことをご存じですか?

隣接する神田川に架かる万世橋に由来しているが、明治45年(1912)操業当時は中央線(当時は甲武鉄道)始発駅であり、東京市電(路面電車)の乗換ターミナルとして栄えていたそうである。東京の南(新橋)・北(上野)・東(両国)に並び、西の玄関口だったのだ。 その後、関東大震災による都市計画や秋葉原駅の出現で縮小、鉄道博物館の併設なるも戦時中に廃駅となってしまった。しかし平成の時代に駅舎は商業施設[MAAch ecute](マーチ・エキュート)神田万世橋として再利用されることとなった。そのオープニングの日に物見遊山で出かけてみた。

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北側の神田川に沿う旧万世橋駅 1013.9.14

 高架橋にある「旧万世橋駅」の煉瓦造・連続アーチを補強するRC造により構造体が強調され、さらに親水性を高めるためのオープンデッキが神田川に沿って張り出されていて、見違えるような姿になった!
旧万世橋駅跡についはこちらからどうぞ。

旧万世橋駅 [MAAch ecute](マーチ・エキュート)

 万世橋駅プラットホームの南側には、かつては駅舎も同居する交通博物館(旧鉄道博物館)があったが、その跡地に高層のオフィスビルとして生まれ変わった。それと対をなして高架下がカフェなどが並ぶ商業施設となっている。

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 1013.9.14

 プラットフォームへは旧来の階段が利用されているのだが、あいにくの長蛇の列で上に登るのはあきらめた。しかし視点を遠くにすればなにやらガラス張りのものが確認できる・・・。案内パンフレットによると中央線の上下線間に挟まれるように長いプラットフォームはそのままの形で、減速されることなく通過する。当然危険なのでプラットフォーム全体をガラス箱にしているようである。そして中央部分はカフェバーとなっているそうだ。

昌平橋

 この橋の由来は古く、「中仙道」はこの昌平橋から、湯島聖堂と神田明神、そして本郷に至るルートが取られていた。そして江戸の町はここまでで、結界の橋でもあるのだ。

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 1013.9.14

 この橋から西を見ると、まさに大都会の大動脈を見る景色である。中央線が神田川をギリギリに走り、川を斜めに横切るのは総武線の高架橋。さらにその先には「聖橋」が垣間見られる。そしてその手前の水面ギリギリに渡る橋は「東京メトロ・丸ノ内線」である。


神田川上りの再開

湯島聖堂の坂道
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 2013.12.09 鉛筆・透明水彩

 江戸の街から昌平橋を渡るとここからは江戸圏外。左手は神田川なのだが、現在は建物が建ち並んでいて残念ながら見ることは出来ない。江戸の時代は上っていくほどに深い谷となり、名勝地だったようで、広重の絵にも残されている。

湯島聖堂
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駿河台・湯島聖堂・大成殿(孔子廟) 2014.5.11 鉛筆・透明水彩

 境内に入ると立派な聖堂。詳しくはこちらからどうぞ。

聖 橋
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 2013.12.09 鉛筆・透明水彩

 この辺まで上ってくると地下鉄ばかりでなく地上を走る中央線・総武線も橋の下。

東京メトロ・丸ノ内線鉄橋
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 2013.12.09 鉛筆・透明水彩

 神田川下流を振り返り見ると、遠くに昌平橋が確認できる。地下鉄路線は水面ギリギリに川を渡る。

かつての名勝地・聖橋から

駿河台と言われる台地が本来の姿だが、小石川あたりの水害回避のため飯田橋あたりから浅草橋に向けてバイパス水路が江戸時代に掘削された。それが現在の「神田川」である。そしてこの駿河台界隈は標高も高いので深い谷となり、江戸の名勝地としていろいろな名画が残されている。

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聖橋から川上を望む 2014.04.08 鉛筆・透明水彩

 聖橋に立つとかつての渓谷の深さを実感できる・・・?はずだが、現在は新しい「御茶ノ水駅」建設のために川は工事用足場でふさがれごった返した場所となっていた。 工事現場を越えた先の橋は「お茶の水橋」。

湯島聖堂
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聖橋から湯島聖堂を望む 2014.04.08 鉛筆・透明水彩

 聖橋の南端から北を見れば湯島聖堂が目の前に。江戸時代はその前の坂道「中山道」を上りながら左手に渓谷の景色を目にすることとなる。この聖堂の北に「神田明神」・「湯島神社」と連なり、江戸を最後にする場所だ。 真下は中央線・総武線の列車がひっきりなしに通過する騒々しい停車場。

ニコライ聖堂
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聖橋からニコライ聖堂を望む 2014.04.08 鉛筆・透明水彩

  片や、南側に目を向けると駿河台を登ってくる車・車・車・・・それを見守るかのように鎮座しているのが「ニコライ聖堂」・・・この橋は二つの「聖堂」を取り持つ橋「聖橋」だったんだね・・・・
詳しくはこちらからどうぞ。

さらにちょっと先にはいると、こんな建物が・・・・

駿河台・山の上ホテル
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2014.4.13 鉛筆・透明水彩・パステル

現在の日本では数少ないアール・デコの建物。御茶ノ水駅前にそびえる「日本医科歯科大学病院」といい、この町周辺は歴史が一杯つまった町だ!この建物も含めてもう少しスケッチしてみたい場所だ。






神田川散策、一コマ進めました。

水道橋
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 2014.5.27 鉛筆・透明水彩

 神田川に沿った外堀通りはお茶の水をあとにして川上に進むと、転がるように歩幅が進む。駿河台のお山を実感。そして白山通りと交わる地点が「水道橋」である。橋の名前?・・・近所の「本郷給水所」で分かります。






To be continued....
(関口町までのスケッチと、さらにその上流は計画中)


取水堰
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文京区関口町の神田川 弧を描く川のすぐ先は「大滝橋」で、江戸時代には取水堰だった処。 2012.4.9

 神田川は井之頭池を水源として目白崖線に沿い流れ、この辺りで著名な高台(目白台)が迫る。その地形を利用して、江戸の上水を取り込む場所(関口大洗堰)となり、地名がそのことを物語っている。すなわち川の関の取水口がこの町名の由来である。
 当時はこの辺りまでを「神田上水」、上水として取り込んだ余り水が「江戸川」と名前を変えて市中に入る。そして最下流が「神田川」となる。

関口芭蕉庵
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椿山荘下の関口芭蕉庵 2012.4.9

 この地は、江戸前期の俳人松尾芭蕉が、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)まで、神田川改修工事に参画し、「龍隠庵」と呼ばれる庵に住んだと伝えられている。後に世人は「関口芭蕉庵」と呼んだ。







(さらにこの上流は計画中)

ちょっと休憩 (余談)

箱根山

 この辺りは目白崖線が迫る場所で、高台には日本女子大学、低地には早稲田大学がある。その早稲田の先にはなぜか?「箱根山」という丘がある。半世紀ほど前には周りは何もない禿げ山(丘?)だったが、近年は桜の名所にも加えても良いぐらいの場所となったので、ちょっと立ち寄ってみることにした。

 箱根山という名前ではあるが決して《天下の剣》の箱根ではなく、早稲田・戸山公園にあるもの。その解説もあるのでこちらもご覧下さい。

 こんな歌↓ 口ずさんだらどうでしょう。

(ブラウザーによっては対応しないものもあるようです。そんな方はこちらでどうぞ)

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新宿区戸山町の箱根山 頂上から麓を望む 2012.4.9 鉛筆・透明水彩

 標高44.6mの山手線内で一番高い「おやま」である。かつての頂上は展望台としてパーゴラも掛かっていたが、現在はない。じつは昨年の大震災で、その「おやま」の頂上に裂け目が入ったのだ。この春には復旧されたが、かつての地肌はなく、コンクリートで蓋をしたような頂上となった。しかしこの時期、全方位桜の花が満開で、手に取るように身近に見下ろせる珍しい花見の場所である。

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箱根山の紅葉 2013.12.06 鉛筆・透明水彩

 

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箱根山の桜 2014.04.02 鉛筆・透明水彩

 

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箱根山の桜 2015.04.06 鉛筆・透明水彩

 

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箱根山の桜 2017.04.07 鉛筆・透明水彩・パステル

 

箱根山地区の歴史

 この地区は、その昔 源頼朝の武将 和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。
 寛文8年(1668)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷となり、その総面積は約13万6千坪(約44万8千8百余平米)に及び、「外山荘」と呼ばれるようになった。
 この「外山荘」は、寛文9年(1669)に工事を始め、天和(1681-1683)・貞享(1684-1687)の時代を経て元禄年間(1688-1703)に完成した回遊式築山泉水庭である。
 庭園の南端には余慶堂(よけいどう)と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、所々に築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した25の景勝地が造られていた。
 なかでも小田原宿の景色を模した「町並」は、あたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
 その後、一時荒廃したが、寛政年間(1789-1800)の初め第11代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園地は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。
 安政年間(1854-1859)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(1868)を迎えた。
 明治7年(1874)からは陸軍外山学校用地となり、第二次大戦後は国有地となりその一部が昭和29年から今日の公園となった。
 陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。

平成2年3月公園整備を記念して    東京都

(公園の説明板より)


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