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左側の荒川から正面の岩淵水門を通過して、隅田川が始まる。右手は隅田川に合流する新河岸川

隅田川


隅田川(すみだがわ)とは

 隅田川は、荒川から東京都北区の岩淵水門で分岐し、新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川を合わせ、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。 この隅田川を糸口に東京の川の歴史を少しひもといてみると現在の河川は人間と自然との闘いで造り上げてきたことが分かる。
 江戸時代までは入間川・荒川・利根川が入り乱れるように江戸湾に注いでいた。すなわち東京の下町(まだなかった)や足立区全域、埼玉県の南東部は湿地、いや遠浅の海に近い状態だったのだ。だから川は決まった場所には留まらず、洪水のたびにあちこちに氾濫していたのである。

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矢印はかつての江戸湾に注ぐ川の流れ(推定)

 徳川幕府がさっそく取り掛かったのが城の前に広がる江戸湾とそれに連なる湿地帯をいかに耕作地にするかという事であった。そのため当時、利根川の一支流だった荒川は西隣りの入間川に迂回・合流(荒川の西遷させ、利根川は東の銚子にまで流れるよう移動(利根川の東遷させた。そしてその狭間の洪水に曝された地域には縦横に水路を巡らせ、肥沃な耕作地としてきた。
(白鬚橋から先の新スケッチへはこちらからジャンプします)

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隅田川の橋にマウスを乗せると橋名を表示します
(電鉄橋、首都高・橋梁、水管橋、送電橋は省略)


26_相生橋(こちらは「晴海運河」となるのでその先の「晴海橋」も含めて検討中)

<案内リスト>

岩淵水門
 01_新神谷橋
 02_新田橋
 03_新豊橋
 04_豊島橋
 05_小台橋
 06_尾久橋
 07_尾竹橋

千住
 08_千住大橋
 09_千住汐入大橋
 10_水神大橋
 11_白鬚橋
 12_桜橋
 13_言問橋
 14_吾妻橋
 15_駒形橋
 16_厩橋

蔵前
 17_蔵前橋
 18_両国橋
 19_新大橋
 20_清洲橋
 21_隅田川大橋
 22_永代橋
 23_中央大橋
 24_佃大橋
 25_勝鬨橋
 26_無名橋(建設中)

浜離宮


 その西に寄せられた荒川(入間川)が現在の隅田川の原型だが、赤羽あたり(岩淵水門)の水位はなんと海抜1m程度(荒川知水資料館の展示資料から推定)という至って流れの緩い大河となっている。(流れ勾配はなんと約1/2000程となる計算だ。)そのため洪水時には氾濫は避けられず、明治43年の大洪水を契機に赤羽あたりから迂回させる計画が進められ、昭和初期に完成したのが荒川放水路である。そして荒川本流は放水路に移し、分流された旧荒川を「隅田川」とした。 因みに隅田川という名称は古くから使われていて、承和2年(835)の太政官符には武蔵国と下総国の境界として「住田河」の名があるそうである。国境という言葉を手掛かりに地図で探してみると、大きく迂回している千住あたりで、東の方から流れ込んでくる川(中川・利根川の支流)が本来の隅田川か?と思わせ、遥かに長い川だったと想像されるのだが・・・遠い昔の蛇行状態の川の形跡を繋ぎ合わせて判別することは今となってはそう簡単なことではない。

 利根川の東遷で利根川を犬吠埼の方に流すことになると、房総半島を迂回することなく太平洋から直接江戸までつながる水運の交通が完成し、東北からの東廻り廻船の発達にも寄与することとなる。
 この時代のもう一つの大事業「玉川上水」と併せて考えると、水の都「江戸」の土台骨が出来上がったこととなり、江戸期の土木事業の先見性・合理性には感心せざるを得ない。


 では昔の渡船場を思い描きながら、河口まで橋巡りをして下ってみよう。

岩淵水門


 秋晴れの天気に誘われて荒川べりまでポダリング散歩をした。荒川近くの赤羽に差し掛ると武蔵野台地の縁にきたことを否が応でも教えてくれる。急坂道の連続が続くのだ。そして目の前に現れるのが隅田川で、すこし上流に行くと水門が現れる。今回の目的地・隅田川が始まる地点である。

隅田川は荒川の延長にあり、かつては本流だった

新旧並べられた岩淵水門


 水門は新・旧二つの水門から成り、旧水門はその色から「赤水門」(1924年完成)と呼ばれる。
 地盤沈下やその後の洪水調整能力を強化するという目的で直下流に新水門(「青水門」と呼ばれる)が昭和57年(1982)に完成した。現在では旧水門は機能していないが、保存運動により残されている。

荒川と岩淵水門

荒川はその名の通り昔から氾濫を繰り返した川でした。特に明治43年(1910)八月の大洪水の時は、水は岩淵町から志村に沿うところで二丈七尺(約8m)に達したと伝えられています。これを契機に、荒川沿いの町を洪水災害から守るため、政府は荒川放水路造成を計画し、新たな川の開削と水門工事を実施しました。これらは難関を極めて困難でしたが、蒸気掘削機など当時の最新技術を使ったり主任技師はパナマ運河建設に従事して研究するなどの努力により、水門は大正13年(1924)十月に完成しました。この岩淵水門は五つのゲートを持つ水門で、そのゲートの一つは後に常に船が通れるように改修されました。

(荒川知水資料館前の説明板より)

旧岩淵水門概要

旧岩淵水門のあらまし
 昔、荒川の本流は隅田川でした。ところが隅田川は川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水を防ぐことができませんでした。このため、明治44年から昭和5年にかけて新しく海までの約22kmの人工の川(放水路)を作り洪水のほとんどをこの放水路(現在の荒川)で流すことにしました。  この放水路が元の隅田川と分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて作られたのがこの旧岩淵水門で、9mの幅のゲートが5門ついています。その後旧岩淵水門が老朽化したことや、もっと大きな洪水にも対応できるようにと、昭和50年から新しい水門(下流に作った青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい水門に引き継がれました。  長年流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた「赤水門」(旧岩淵水門)が現在子どもたちの社会見学や、憩いの場として周辺の整備をして残していくことにしています。

(荒川知水資料館前の説明板より)

旧岩淵水門

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右岸から見た旧岩淵水門  2009.11.28 鉛筆・透明水彩

 この赤い水門が旧岩淵水門で、5門のゲートで構成されている。右端の一つだけが高く掲げられて見えるのは通船のために改造(1960)されたためである。右奥に見える高い四つ連なる塔が3門で構成された新水門だ。

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荒川堤から川上を見た旧水門と荒川上流 左後に続く新水門から隅田川へと連なっていく
2009.11.28 鉛筆・透明水彩

 新水門を渡って荒川堤に来ると360度見渡せて、いたって爽快である。
右手(左岸)奥は高層ビルの建ち並ぶ川口市(埼玉県)で、手前の川辺りはゴルフ場として利用されている。目視でも川岸の低さがよくわかり、かつての川はその辺りを呑み込んでいたのだろう。
 片や左手(右岸)の赤羽(東京都)方面は手前の堤はあるものの、その奥は武蔵野台地の崖線となっていて、新河岸川と共に東京側の台地に寄り沿うように流れていることが判る。 「赤羽」の地名は「まったくの端っこ」という意味を込めて【赤ッ端】とでも呼ばれていたのではなかろうか・・・などと空想してしまう。

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01 新神谷橋(しんかみやばし)

江戸時代から西新井大師への参詣や荒川堤への花見客を乗せる渡船場(神谷の渡し)で賑わった場所。当時の対岸は荒川放水路も無く、浸水被害に備えた堤が桜並木の名所として熊谷にまで達していたという。隣の「野新田の渡し」と同じように荒川放水路の開削に伴い、その後の左岸(足立区新田地域)の交通路としても必須のものだった。

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2009.11.28 インクペン・透明水彩

 赤羽側から川下を望むと蛇行する川に最初に架かるのが新神谷橋。都市計画道路環状七号線を通す重要な橋だが、架橋は意外に新しく昭和40年(1965)である。 岩淵水門からは最初の橋だというのに、はやくも両岸の土地はかなり低いことが分かる。太鼓橋の形態は必然的に生まれたデザインであることもよく理解できる。

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02 新田橋(しんでんばし)

新神谷橋から川下を望むと次に架かる新田橋が見える。左岸足立区新田(しんでん)にちなんだ名称である。

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2009.11.28 インクペン・透明水彩

 江戸時代のこのあたりは「野新田(やしんでん)の原」と呼ばれた桜草の名所で、農産物を江戸市中に運搬する渡船場(野新田の渡し)でもあった。

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井桁に組んだ形をした橋脚が注目 2010.04.10 インクペン・透明水彩

 荒川放水路の開削に伴って中洲状に孤立した左岸足立区新田の交通路として昭和14年(1939)に木造橋が架けられた。昭和36年(1961)に現在の橋に架け替えられたが、珍しい形の橋脚は木造橋のものを模したものである。

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03 新豊橋(しんとよばし)

新田橋下流には新しい橋がすぐ傍に見える。

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2010.04.10 インクペン・透明水彩

 平成19年(2007)に開通したという、隅田川では一番新しい橋である。左岸の団地と総合的に計画されたもののようで、斬新なデザインが印象的。ちなみに橋名は左岸足立区新田と右岸北区豊島の地名頭文字から。

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04 豊島橋(としまばし)

 現在の豊島橋から200mほど上流辺りは大きく蛇行する。区分け地図によるとその蛇行はさらに延びて、現在の荒川にも達していることから、相当大きな蛇行と考えられる。その辺りを「天狗の鼻」と呼んでいたようで、やはり渡船場があった。「豊島の渡し」といっていたが、六阿弥陀詣の霊場巡りには必ず渡る必要があったことから「六阿弥陀の渡し」とも呼ばれていた。

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2010.04.10 インクペン・透明水彩

 

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石神井川河口と首都高速中央環状王子線の架橋

このあたりは高い護岸に守られていて川の様子はうかがい知れないところである。

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2010.04.10 インクペン・透明水彩

 スケッチしたあたりは「梶原の渡し」があった辺りらしい。最近所々で造られはじめた親水公園のおかげでようやく川を覗くことが出来た。明治期には右岸の紡績工場へ、戦時には左岸の軍需工場へ、戦後には右岸荒川線沿いの梶原銀座へ買物に、と活躍した渡船場だ。
 板橋JCTからの首都高速道路は飛鳥山トンネルを抜けると、石神井川・隅田川・荒川の上空を上下2段の高架橋で、江北JCTへ一気に走って行く。その高架橋下はうす暗く人を一切寄せ付けない。まるでミステリーゾーンだ。しかしこの高い護岸のすぐ外側で杜若がたったの一輪咲いているのを見つけた。如何に水位が高いかを教えてくれている。

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05 小台橋(おだいばし)

 江戸時代から江北・西新井・草加方面への交通の要所として賑わい、「西新井大師」への参詣客も利用した渡船場「小台の渡し」のあった場所で「尾久の渡し」ともいわれたが、「小台橋」架橋と共に廃止された。

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2010.04.10 インクペン・透明水彩

アールデコの薫り

 関東大震災後の復興都市計画に基づいて昭和8年(1933)に架橋されたが、その後老朽化のため平成4年(1992)に現在の橋に架け替えられている。外観から見るとオリジナルなデザインを十分尊重して行われたものなのだろう。
 アーチからの吊ケーブルは斜めに張られ橋桁を支える姿はいたって斬新にして軽快である。アーチの基部にはバルコニーも設けてあり、親柱の照明からはアールデコのにおいが漂う。このせわしい世の中になんと夢のある橋だろう。この道と橋が交通の要所として重要だったことを思わせる。

 渡船場としての要所を示すものを一つ紹介する。すこし上流の右岸には水上バス乗り場があり、その脇は「荒川遊園」という荒川区立の遊園地である。設立は関東大震災の前年・大正11年(1922)というから当然架橋以前のことで、当時から賑わっていたことを偲ばせる。しかし当時は現在のような遊園設備はなく、現在の「クアハウス」のようなものだったらしいが・・・それが戦時中はなんと! 陸軍の高射砲陣地にもなったという歴史も経ている。
 ここを通過したのは春おだやかな桜の花が満開の時期で、子供達の歓声を聞きながら桜の香りをおかずにしてむすび飯をほおばった記憶が甦る。

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06 尾久橋(おぐばし)

この辺りは大正期までは渡しもなかったが、大正中期から昭和にかけては「熊野の渡し」があったようである。

sketch

2010.04.10 インクペン・透明水彩

 荒川放水路と接近しているので二本の川を一またぎするような橋になっている。昭和7年(1932)の放水路開削時に架橋されているが昭和43年(1968)に現在のものに架け替えられている。いや、それよりも現在では平成20年(2008)に架けられた「日暮里・舎人ライナー」という東京都交通局が運営する新交通システムの路線がさらに上部をさっそうと通っていく。そのためかどうかは知らないが、歩行者には大変失礼な(不親切な)橋で、道を横断する歩道橋のように階段を上っていかなければ橋にたどり着けない。おまけに自動車交通は多いので歩行者はたまったものでない。隅田川の恥部である。

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07 尾竹橋(おたけばし)

千住や西新井大師への渡船場「尾竹の渡し」のあったところで、別名「御茶屋の渡し」。その看板娘「尾竹」に因んだ名前らしい。

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2010.04.03 インクペン・透明水彩

 関東大震災の復興事業の一環として昭和9年(1934)に架橋されている。小台橋とたったの一年後でしかないのにこのデザインの手抜き加減はどういうことだ。軍靴の音も聞こえはじめてくるような時代だ。つまらない無駄のないデザインになっている。

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08 千住大橋(せんじゅおおはし)

正面に大きくかかるアーチ橋は東京電力の幹線を渡す橋で、その奥に見えるのが「千住大橋」である。鉄道・水道・電気の幹線を渡す橋が重なっていて、この大橋を直接目にすることは出来ない。大都市のインフラを支える重要なポイントだからだろうか、護岸に沿って歩くことは不可能となっている。

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2010.04.03 インクペン・透明水彩

 この東電橋辺りが最初の大橋が架かった場所で、その後の度重なる掛け替えで少しずつ現在の場所に移動している。 古くは奥州への古道の渡しがあり、裸になって徒歩で渡ったという記録もあるから浅瀬だったのだろう。そのため「渡裸(とら)の渡し」、音が変じて「戸田の渡し」ともいわれた場所である。

「千住」について


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荒川放水路のある現在

 隅田川は岩淵から蛇行しながら東に流れ、この千住を境にほぼ直角(矩折り)に南に向きを変える。そのヘアピンカーブ辺りは、かつては綾瀬川が合流するところでもあり、水流によって深くえぐられた「矩折りの淵」すなわち「鐘ヶ淵」は昔から舟人にとっては難所として恐れられていた。(鐘ヶ淵という地名は後に紡績会社が進出して社名「カネボウ」の語源になっている。)

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江戸時代の湿地帯だった当時の状況

 上流からの物資を陸揚げするのはその手前の「千住河原」となり、左岸は奥州・日光街道の初宿「千住宿」をまかなう市場「ヤッチャバ」として大いににぎわった。片や対岸(右岸)は、飯能・高麗・秩父から運ばれてきた材木(西川材)の筏が川幅を半分も占め、大火の多い江戸を市場にした材木問屋が連立していた。水運が重要な時代ではこの千住河原は物流の重要な拠点であったのだが、馬車・鉄道・自動車と陸運が発達するにつれ物流拠点としての重要度は下がってきて、新たな町づくりが始まっている。

名所江戸百景
「千住の大はし」広重

 昔は戦略上川には橋を架けないのが普通だったが、隅田川ではここ千住の「千住大橋」が最初の橋として、徳川家康が江戸城に入ってから4年目の文禄3年(1594)に架けられた。その後何度も架け替えや改修はされたが明治18年(1885)の台風まで流されることはなく、江戸300年を生き抜いた名橋といわれ、右図のような絵にも画かれている。隅田川にその次に架けられたのは「両国橋」で、万治2年(1659)のことだから65年間もこの橋が隅田川唯一のものだったことになる。

 隅田川を挟んで南・北の千住駅があるが、川が区界となり北が足立区、南が荒川区となっている。町名は南千住町は存在するが、北千住町は存在しない。これは本来の千住とは川の北側だけにあった千住宿を指していて、千住宿が橋を越えて南に延長されてきたことによる。

町の様子についてはこちらからどうぞ。


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09 千住汐入大橋(せんじゅしおいりおおはし)

渡船場「汐入の渡し」のあった場所で、北岸は足立区千住曙町、南岸は荒川区南千住八丁目。この辺りからほぼ直角に蛇行して南下し、舟人に恐れられていた「鐘ヶ淵」に近付いていく。

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2010.4.10 インクペン・透明水彩

 新豊橋に次いで二番目に新しい平成18年(2006)に開通した橋で周りの集合住宅群と一体に計画された橋なのだろう、軽快な形とカラーリングが素晴らしい。それにまして、この辺りから川辺に葦が意識的に植えられている。水の浄化の一助にするためだろうが、景観がどんなにスケールアウトしていても馴染みやすいものにしてくれる。植物は景色の七難を隠すとはよく言われることだけれど・・・・

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鐘ヶ淵に注ぐ綾瀬川

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2010.4.10 インクペン・透明水彩

 隅田川が大きく曲がる場所が「鐘ヶ淵」で昔の舟人にとっては難所として恐れられた場所だ。対岸には綾瀬川(それとも中川?)が合流するところで河口を表している。

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10 水神大橋(すいじんおおはし)

「水神の渡し」という渡船場のあった場所である。「水神」とは東岸にある「隅田川神社(水神宮)」のこと。

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2010.4.10 インクペン・透明水彩

 ここまで来ると周りの景色は一変して広々、実に気分爽快である。対岸の城壁のような共同住宅群は防災計画に沿ったもので、川辺を火災から守るよう配置されている。屋上に黄色いタンクがあるのは災害時の消火タンクだったと記憶している。この両岸は東京都の防災拠点で、その相互連絡橋として一つ上流の「千住汐入大橋」と共に計画されたものだが当初は歩道橋として平成元年(1989)に使われはじめた。そして平成8年(1996)からは自動車道路としても使用されている。

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2010.4.10 インクペン・透明水彩

 アーチ橋脚に張り出しているバルコニーは歩道橋を意識した配慮からだろうか? いいアクセントだ!
建設中のスカイツリーが見え始めてきたので歩を進めよう。

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11 白鬚橋(しらひげはし)

「橋場の渡し」とか「白鬚の渡し」という渡船場があった所で、千住大橋が架けられるまでは重要な渡し場。律令時代には武蔵国と下総国との国境が住田河(隅田川)として記述されており、奥州、総州への古道がここを通る。伊勢物語の主人公がわたったのもこの渡しである。

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2010.4.10 インクペン・透明水彩

 大正3年(1914)に有料の木造橋として架けられた歴史のある橋である。 当然震災で被害を受け、大正14年(1925)には震災復興事業の一環として現在の橋に架け替えられた。

見事な親柱

 この時代のものに共通していえることだが、どの橋も親柱が重要なデザインのポイントになっていて、ここでも当時のアールデコを彷彿させるものとなっている。(右図)
 ちなみに白鬚とは左岸にある「白鬚神社」に因んだもので、ヒゲは口髭(くちひげ)でなく顎鬚(あごひげ)のヒゲである。ここで気になるのが遥か川上にある高麗神社のことで、隅田川・荒川・高麗川と溯っていくとその高麗神社にたどり着く。その神社の別称が「白鬚神社」なのだ。かの地は8世紀にハイテク集団高句麗渡来人が入植した地域で、その当時の交通手段は陸地を辿るよりも川伝いの方が遥かに合理的であり、当然川上の文化は東京湾にまで伝わっていたことと思われる。この神社もその流れと関係があるのではないだろうか。

後日、その白鬚神社を訪れて高麗神社との関わりを訪ねてみたが宮司さんからは完全に否定されてしまった。荒川の中流域「川口」あたりで春日系の神社が大きく南北に渉って遮断するように分布していて、上流域と下流域との関係はあり得ないとのことだった。 しかしこの神社の10世紀に始まる来歴を見て、私の疑問はますます深くなった。歴史は後世の為政者が都合の良いように作りかえてきたことをよく目にするからだ。半島との関わりはタブー視されているのだろうか、宮司さんの否定する迫力にそんなことを感じた。


白鬚神社

祭神
 猿田彦大神
 天照大御神 高皇産霊神 神皇産霊神 大宮能売神 豊由気大神 健御名方神

由緒
 天暦5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここに祀ったと、社伝の記録は伝えている。天正15年(1592)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
 当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内してくださる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化12年に奉納したもので、その信仰の程が偲ばれる。明治40年には氏子内の諏訪神社を合祀した。

隅田川七福神
 当社に寿老人を配し奉るのは、文化の頃この向島に七福神をそろえたいと考えた時に、どうしても寿老人だけが見当たらなかった。ふと白鬚大明神はその御名から、白い鬚の老人の神様だろうから、寿老人にはうってつけと、江戸人らしい機知を働かせて、この神を寿老人と考え、めでたく七福神がそろったといわれる。隅田川七福神にかぎり、寿老神と神の字を用いる所以である。

出典:白鬚神社説明板

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しらひげ‐みょうじん【白髭明神】

 猿田彦神といい、また、新羅の神という。能「白鬚」に見えるものは滋賀県高島郡高島町の白髭神社をいう。

出典:広辞苑 第五版 (C)1998,2004 株式会社岩波書店

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白鬚橋の下流に来ると、橋の数が少なくなってくる。
辺鄙なところだったのだろう。その場所から年をまたいでの川下りスケッチを再開する。



前回から一年近く経つので、スカイツリーも少し生長している。それも楽しみだ。(110122)


12 桜橋(さくらばし)

昭和60年(1985)に架けられた比較的新しい橋だが、この橋の上流側にあったのが「今戸の渡し」で、渡し自体も新しいらしく、一つ上流の白鬚橋のところにあった「橋場の渡し」より新しいので「今」という文字が取り入れられたようだ。「寺島の渡し」ともいわれたという。

sketch

2011.1.22 鉛筆・透明水彩

この橋のユニークなことは先ず橋詰が二又に分かれたX字型平面だということ。それと両岸の隅田公園を結ぶ苑路を兼ねているので歩行者専用橋ということだ。花見の季節に両岸の桜並木を眺めるにはほどよいカーブが歩いて渡るにつけ景色が変わり目を楽しませてくれることだろう。

13 言問橋(ことといばし)

現在の言問橋より少し上流にあったのが「竹屋の渡し」「向島の渡し」といわれた渡船場である。

sketch

2011.1.22 鉛筆・透明水彩

関東大震災の震災復興事業として計画された橋で、昭和8年(1933)に架けられている。
在原業平が詠んだ歌「名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」で、この橋と思いを重ねてしまいがちだが、その橋は現在の「白鬚橋」のこと。創業明治4年(1871)という橋詰の茶屋の機知に富んだ名物「言問団子」が橋の名前の由来とも聞くが定かでない。

 「ゲルバー橋」といわれる構造で地盤の不安定なこの下町に中央部に長大スパンを可能にしている。すっきりした直線で一跨ぎした姿は、左岸に見える「スカイツリー」の垂直線と実に好対照でベストアングルではないだろうか?(ちなみに同じ下流に架かる「両国橋」も同じ構造形式である。)

東武鉄道伊勢崎線隅田川橋梁

このあたりにあったのが「山の宿(やまのしゅく)の渡し」で浅草寺の参拝客・花見客で賑わった渡船場だ。「花川戸の渡し」「枕橋の渡し」とも呼んだようだ。

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2011.1.22 鉛筆・透明水彩

この橋は隅田川の東端までだった東武線が浅草まで延長するために架けられた橋で、昭和6年(1931)からのものである。東武線浅草駅を利用された方はお気づきのことと思うが、プラットホーム東端は極端に狭い。川に隣接した駅であるためで、橋から複数のプラットホームに分岐するためにはやむを得ないことなのである。そのため本来設けてはならない橋の上に切り替えポイントが設置されている。例外的処置だとのことで、そのためか橋での速度はいたって安全運転?低速運行である。

14 吾妻橋(あずまばし)

少し下流に下ったあたりらしいが「竹町(たけちょう)の渡し」があったところ。「駒形の渡し」とも呼ばれていたようだ。

sketch

2011.1.22 鉛筆・透明水彩

浅草寺雷門の前を通る「雷門通り」が東に渡る橋である。そのため「東橋」転じて「吾妻橋」というのが名称由来だろうか? 最初に架けられたのは安永3年(1774)というから、隅田川では古い橋である。浅草という繁華街が偲ばれるものである。そして明治20年(1887)には隅田川最初の鉄橋として架橋されている。当時から歩道橋・車道橋・市電鉄道橋として機能していたというから見事なものである。現在の橋は関東大震災以降のもので昭和6年(1931)に架け替えられた。
この浅草の賑わいは現在の「スカイツリー」人気に拍車が掛かり、橋の上はカメラを手にした人で大混乱。スケッチは遠慮して遠景となった。

15 駒形橋(こまがたばし)

少し上流に「駒形の渡し」があったところ。

sketch

2011.1.22 鉛筆・透明水彩

関東大震災後の復興計画により昭和2年(1927)に現在の橋がはじめて架けられた。その西詰めは「駒形堂」があった場所でその名前が付いているが、当の駒形堂は関東大震災時に消滅してしまった。現在は橋のたもとに小さなお堂が建って当時を教えてくれている。

白鬚橋あたりにも浮かんでいたが、このあたりには屋形船がたくさん停泊していて、荷物の出し入れで忙しくしていた。大寒に入っているというのに船遊びするといういなせな客人が居られるようだ。

駒形堂

台東区雷門二丁目二番二号

 「浅草寺縁起」によると、創建年代は朱雀天皇の天慶5年(942)で、建立者は安房守平公雅(あわのかみたいらのきみまさ)。名称由来には、

1)隅田川を舟で通りながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳けているようなので、「駒馳け」の転訛。(江戸名所図絵)

2)観音様へ寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け堂」と呼んだのか訛る。(燕石雑誌)

3)駒形神を相州箱根山から勧進したのに因む。(大日本地名辞典)
これらの説がある。本尊は馬頭観世音菩薩。

 葛飾北斎・安藤広重らによって、堂は絵に描かれた。小さくとも、江戸で名高い堂だった。当時の堂の位置は現駒形橋西詰道路中央部付近。堂は関東大震災で焼けた。

平成4年11月

台東区教育委員会

駒形堂掲示板より

16 厩橋(うまやばし)

この橋のあたりは「御厩河岸の渡し」ともいわれた「御厩(おうまや・おんまい)の渡し」があった。右岸には江戸幕府の「浅草御米蔵」があり、その北側には専用の厩があったのが名前の由来。

sketch

2011.1.23 インクペン・透明水彩

親柱は工芸品!

 この渡船場は不名誉にも「三途の渡し」とも呼ばれていた。それだけ事故が多かったということだろうか、明治7年(1874)には地元有志により架橋された。民営の悲しいところで有料であっても維持管理が十分出来ず、明治26年(1893)には東京府により道路計画に併せて鉄橋に架け替えられている。

 現在の橋は関東大震災の復興計画によるもので昭和4年(1929)に完成している。着工が大正15年(1926)ということなので、まさにアールデコ最盛期の計画となる。この時期に架け替えられた名橋・美橋といわれる「清洲橋」「永代橋」と肩を並べられるもの、いやそれ以上に当時の雰囲気を見事に表した独自なデザインは名橋と称えたい。特に注目したいのは、見事な三連タイドアーチの端部・親柱に相当するところで、アーチ橋の鉄骨を流線型に処理し、さらにその頂部に風を切るかのように取りつけた照明灯である。アール・デコの一つの様式、ストリームラインでまとめられている。(右図参照)
そして圧巻なのはその照明灯がステンドグラスになっていて夜に点灯されるとボーッと存在を示すのだ。しかもその絵柄がこの「厩」に掛けて「馬の絵」とは! しかし慌ただしい現代人は、このことはほとんど無視して通り過ぎているようだ。かく言う自分も、夕方の復路で初めて発見したことで街が明るすぎるのだ。ヘッドライトで前方だけを凝視している目には決して映らないことだろう。

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「蔵前」について


 「蔵前」とは東京都台東区の隅田川西岸の地区で、厩橋(うまやばし)から蔵前橋の少し下流までを指す。
 江戸時代に隅田川河畔を埋め立て、幕府の米蔵(浅草御蔵)が造られた。(1620年) その蔵の前と言うのが「蔵前」という地名 の由来で、当時の絵図によると陸揚げされる八本の堀が船着き場に造られているのが見られる。 対岸の「御竹蔵」は幕府専用の広大な資材置き場で、広い入り堀で隅田川に繋がり、周囲を堀で廻らした場所となっている。竹蔵というほどだから竹材置き場だと推察するが、それにしても広大な面積を占めているものだ。

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赤ゾーンは浅草御蔵 緑ゾーンは御竹蔵を示す

 東京電力の前身である東京電燈株式会社が明治28年(1896年)に「御蔵」の北側(現・蔵前変電所)に3本煙突の火力発電所を造った。大正12年(1923年)の関東大震災でも無傷で、大正15年(1926年)に千住にある1本煙突の火力発電所に移転・合併された。千住のお化け煙突とは4本煙突のことだが、その三本はここからのものだったのだ。

 「御竹蔵」は維新後、陸軍倉庫そして陸軍被服廠(ひふくしょう=軍服や軍靴を製造する工場)となったが明治24年には隅田川上流(岩淵水門)の赤羽台に倉庫群が移転し、その跡地が現在の横網町公園であり、両国国技館、江戸東京博物館である。詳しくはこちらからどうぞ。

 江戸時代は防衛上の理由から数々の橋はなく、日光街道の「千住大橋」(1594年架橋)が最初のもので、その後に架けられたのは明暦の大火(1657)で避難路確保の必要に迫られ架けられた「両国橋」(1659年架橋)だが、橋名は武蔵の国と下総の国を結ぶことからによる。すなわち県境が隅田川であったことを物語っている。

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17 蔵前橋(くらまえばし)

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下流からの眺めだが、すぐ下流に人の渡らない橋が架かっている。頭上の橋である。  2011.1.23 鉛筆・透明水彩

 関東大震災の復興計画により昭和2年(1927)に現在の橋がはじめて架橋された。それまで渡船場があったわけだが、江戸時代の「お米蔵」と「御竹蔵」という敷地があったので、この橋からはちょっと離れる。
 西詰めには戦後昭和29年(1954)から昭和59年(1984)まで蔵前国技館があった場所で、高欄には力士のレリーフが取りつけられている。橋の黄金色塗装は江戸時代の米蔵からの発想で、稲の籾殻を連想させるものだそうだ。

蔵前専用橋(くらまえせんようきょう)

「富士見の渡し」があった場所である。舟上から富士山が良く見渡せたのでこの名がついたと言われている。江戸幕府の米蔵が付近にあったので「御蔵の渡し」とも呼ばれた。

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奥に見える黄色い橋が蔵前橋だ。  2011.1.23 鉛筆・透明水彩

 右岸はかつての「御蔵」であり、明治期から関東大震災まで火力発電所があったことからこの橋は送電橋か?そして太い管を抱えていたので水道橋を兼ねたものかと推察していた。しかしその後調べてみたら「NTT蔵前専用橋」とも呼ばれる、旧電電公社時代に作られたものだった。日本で初めての洞道(通信線トンネル)専用橋で、水道橋も兼ねたものとのこと。

総武線隅田川橋梁(そうぶせんすみだがわきょうりょう)

この鉄道橋あたりに「横網の渡し」があったそうだが詳細は不明。

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隅田川に注ぐ神田川河口がこのテラスのすぐ後ろ  2011.1.23 鉛筆・透明水彩

 総武線はかつては錦糸町駅(当時の本所駅)から東へ向けて始まっていたが、明治37年(1904)には両国駅(当時の両国橋駅)が始発駅となる。そして隅田川を越えたのは関東大震災後の昭和7年(1932)からのことである。この橋の完成年度ということになる。それまでの千葉と都心との物流は両国駅を中継地点として隅田川を利用した水上輸送であり、鉄橋を渡る鉄道へ、そして現在の網をめぐらせたような道路輸送へと大きく様変わりしてしまった。しかしこの橋の重要さは変わらない。
 長スパン路面の桁に剛性をもたせるためアーチと組合せ(Langer Bridge)、中央アーチ部両端からの跳ね出しを支点とした一種のゲルバー橋らしいが、力強い桁と軽快なアーチが印象的だ。

 

 川沿いのテラスはここに注ぐ神田川河口で途切れる。
 一休み 
ちょっと神田川をのぞいてみよう。

神田川最下流

神田川の最下流に架かる柳橋から  110123

 屋形船がぎっしり浮かんでいる。この先は「浅草橋」であり「萬世橋」「聖橋」も架かる大都心部が連なる。その川の最下流は、生活の香りいっぱいに漂わせる魅力的な町だった。

 では本流に戻ろう 

18 両国橋(りょうごくばし)

京葉道路(国道14号)が渡る交通量の多い橋である。武州と房州をつなぐ主要な橋として今も変わらない。

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2011.1.23 鉛筆・透明水彩

 隅田川では2番目に架けられた橋。当初は「大橋」といっていたが当時の武藏の国と下総の国との国境に当たるため二つの国を結ぶ「両国橋」と呼ばれるようになった。最初の架橋は明暦の大火(1657)がきっかけだが、それから何度も架け替えられている。鉄橋へと架け替えられたのは明治30年(1897)の花火大会で欄干が崩落下のがきっかけだったとか。その鉄橋は曲弦トラス3連橋の立派なもので、関東大震災にも被害が出なかったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて昭和7年(1932)に現在の橋に架け替えられた。
 主要道路橋としての思いだろう、橋脚部にはバルコニーも取り付いた梁桁を掛け渡したものだが、その軽快感を出すために当時のモダニズムデザインと先進技術を取り入れている。時期を同じくして架けられた「言問橋」と同じ構造形式の「ゲルバー橋」の競演である。(残念ながら当日は塗装作業期間中で全容はよく見られなかった。)
 震災前の鉄橋は3連トラスの一連が少し下った「中央大橋」の影に隠れるようにして亀島川水門の裏側に移設して架かっていた。都内に現存する鉄橋の内、実際に利用されている自動車橋「南高橋」としては最古のものだそうで明治は健在だった。

 

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首都高速道路・両国大橋

このあたりは「一目の渡し」とか「千歳の渡し」といわれたところ。

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2011.1.23 鉛筆・透明水彩

 首都高速道路の橋で、6号(向島線)・7号(小松川線)の合流地点にあるため複雑な構造となっている。しかも限られた川端で処理しているのだから驚いたものである。昭和44年完成(1969)完成。決して運転者には理解できない裏側だ!

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19 新大橋(しんおおはし)

この橋あたりが江戸初期から運行されていた渡船場「安宅の渡し」である。「安宅」とは江戸時代の軍艦(安宅船・あたけぶね)のことで、近くの深川に係留されていた幕府の巨大御座船「安宅丸(あたけまる)」に因んで「あたけ」とは新大橋東岸地域の俗称となる。

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2011.1.23 鉛筆・透明水彩

 この橋は隅田川で二番目の「両国橋(本来は大橋)」に次ぐ三番目に架けられた橋であることから「新大橋」と呼ばれた。元禄6年(1693)のことだから二番目から三十数年後となる。歌川広重の「名所江戸百景」で「大はしあたけの夕立」はこの橋のことで、遠くヨーロッパの印象派にも影響を与えている橋としても有名。
鉄橋になったのは明治45年(1912)で、アールヌーボー風の高欄を備えたトラス式のものとして現在のモダーンな斜張橋が昭和52年(1977)に架け替えられるまで使用されていた。(旧橋は貴重な文化財として明治村に一部保存されているという)

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20 清洲橋(きよすばし)

「中洲(なかず)の渡し」があったところ。中洲といわれるくらい無人の荒れ地で渡しが始まったのも明治からで、橋が架かってから当然消滅している。

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2011.1.23 鉛筆・透明水彩

震災復興事業として川下に架かる「永代橋」と共にデザインされた橋で、吊橋形式の鉄橋である。西岸の日本橋中洲町と深川清住町を結ぶことが名前の由来。昭和3年(1928)の完成で大正ロマンの風潮がまだ残っている時代だからこんな自由な発想でデザインされたのだろう。ちなみに意匠面では建築家の山田守や山口蚊象も関与したという。

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21 隅田川大橋(すみだがわおおはし)

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2011.1.23 鉛筆・透明水彩

 都道(水天宮通り)の上に高速道路が乗った2層式で、昭和54年(1979)完成という比較的新しい橋だ。おかげで見通しの悪い場所となってしまったが、最上部に上がればこの橋は見えなくなるので一番景色がいい橋・・・という冗談までいたくなる。

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22 永代橋(えいだいばし)

「深川の渡し」とも「大渡し」とも呼ばれた渡船場のあったあたり。

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2011.1.23 鉛筆・透明水彩

 元禄11年(1698)に隅田川では4番目に架けられた橋である。時の五代将軍徳川綱吉の50才を祝して末永く続くよう「永代橋」となった説と、架かる場所が「永代島」だからという説があるがごちらか定かでない。港の外港に近いため、多数の回船が通過するので橋脚は充分高くしたので当時としては最大規模の橋だったという。
鉄橋になったのは明治30年(1897)で鋼鉄製トラス橋として架橋されたが、橋底が木造だったことからか関東大震災時には炎上、多数の焼死者を出してしまった。そのため震災復興事業第一号として現在の橋が大正15年(1926)に架け替えられている。
東京の入口にふさわしい橋として日本で最初に径間100Mを越える橋として現存最古のタイドアーチ橋として、上流に架かる「清洲橋」と好対照をなしている。しかし残念ながら現在はその中間に「隅田川大橋」が2層式の橋として見通しの邪魔をしているので見較べることが出来ない。

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江戸時代だったら東京湾に到着しているはずだがまだまだ川は続いていく


23 中央大橋(ちゅおうおおはし)

このあたりは隅田川の河口で、霊巌島(右手)と深川(左手)をつなぐ「大川口の渡し」があったところ。正面がかつて造船所のあった石川島で川は二手に分かれる。

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2011.1.23 鉛筆・透明水彩

 正面の石川島から佃島・月島と連なっていたのだが、現在は周りを埋め立てて一つの島のようになり、辛うじて細い水路が区画して島名だけを留めている。石川島の現在は見違えるような超高層の住宅街となっているが、その裏側ではかつての漁民の島を思わせる町が残っている。急激に住民がなだれ込んで来たわけだから、はたして島の自治はうまくいってるのだろうか?人ごとながら心配になる。
 平成5年(1993)に出来た新しい橋でバブル絶頂期の計画なので贅沢に出来ている。隅田川はフランスのセーヌ川と友好河川ということで設計がフランスのデザインの斜張橋。中央橋脚部には上流に向けて彫刻家ザッキンの「メッセンジャ」と名付けられた彫刻が立っている。
 川は二又に分かれるが左側は「晴海運河」で、ここから東京湾への短絡水路。スケッチは右手に進めていくこととする。

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立っている階段の背後が「佃大橋」  2011.1.30 鉛筆・透明水彩

 佃島は漁民の島なので渡し船は必要ないことだが、明治期に入ってから石川島、月島に造船所などで働く人のために渡し船が必要となってきた。その渡船場が「佃の渡し」で、この橋あたりにあったが、大戦後になってようやく架橋され、それまで現役だった。

中央区民文化財 佃島渡船場跡

所在地 中央区湊三丁目18番・佃一丁目11番4号

 佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲(よりす)でした。江戸幕府初代将軍徳川家康の時、摂津国佃村(大阪市西淀川区)の漁民を招いて住まわせたところと伝承されています。この島と対岸の船松町(佃大橋西詰付近)との間に正保2年(1645)に通ったのが佃の渡しです。

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昭和28年頃の佃島宿渡船(京橋図書館所蔵)

 明治9年(1876)には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を願い出て許可され、大正15年(1926)東京市の運営に移り、翌昭和2年3月に無賃の曳船渡船となりました。「佃島渡舶」の石碑は、手こぎ渡船を廃止した記念として、この時期に建てられたものです。
 昭和30年(1955)7月には1日70往復にもなりましたが、同39年8月の佃大橋の完成によって300年の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。
 渡船の歴史を記念する史跡として、中央区民文化財に登録されています。

平成16年3月

中央区教育委員会

(現地掲示板より)

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24 佃大橋(つくだおおはし)

 佃大橋あたりには「佃の渡し」があったところだが、このスケッチ位置は聖路加病院あたりである。そして対岸「月島」を結んでいたのが「月島の渡し」だ。月島の埋立が明治期に完成してからの開通だが、すぐ下流に架かる「かちどき橋」の完成と共に廃止されている。

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左手は明治元年には「外国人居留地」に指定されたという明石町で右手対岸が月島  2011.1.30 鉛筆・透明水彩

 この橋は戦後昭和39年(1964)になって初めて架けられたものでかなり遅いものだが、それもそのはず対岸は月島・勝どき・晴海という埋立地。それも完成されてきて晴海埠頭や国際貿易センターの交通路として出来たものなのだろう、自動車橋として一またぎ、そして歩道は両詰めでジグザク車路で昇降となる。

25 勝鬨橋(かちどきばし)

 ついに到着!隅田川河口だ。しかし寒い!大寒のこの時期、小雪も舞う日となってしまった。

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2011.1.30 鉛筆・透明水彩

 隅田川の最下流に架かる、東洋一の可動橋。現在は交通量の多さから開かれることはない。
 橋の名前は明治38年(1905)の日露戦争勝利を記念してと記憶していたが、完成は昭和15年(1940)ということでちょっと話が違う。調べてみたらこの橋のさらに下流、築地と月島を結んでいた「勝鬨の渡し」という渡船場があり、それが名称の由来とのこと。では、その「勝鬨の渡し」とは?
 日露戦争の旅順陥落直後に、当時の京橋区役所が海幸橋(現・市場内)と月島を結ぶ渡船を創設、無料の手漕ぎ船だったとのこと。名称はやはり勝利記念の「勝鬨」からで、渡船場は大正4年(1915)には汽船となり、月島へ通勤する多くの乗客に利用されたが、勝鬨橋の架橋にともない名誉ある名称も新しい橋に託して渡船場は廃止された。


隅田川散策の当時(2011)はここまででお仕舞いだったが・・・
2020年の東京オリンピックの施設として臨海副都心にアクセスする動脈が計画されていた。
それは築地市場脇からひとっ飛びで渡ろうとする新しい橋である。
その橋がつい最近全容を現したのでさっそく出かけてみた。

ポン・ヌフ?

 東京湾に注ぐ隅田川の最下流には「勝鬨橋」が架かっているが、さらにその下流・右岸(築地側)と左岸(勝どき側)に新たな橋が架かった。現在は工事中だが、その山場・中間部(120mスパン)を台船で運んだアーチ橋が一日で架かったのだ。(5/8) その情報を知り、訪ねてみた。

無名橋 (名前はまだない)

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 2014.5.9 鉛筆・透明水彩

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 2014.5.9 鉛筆・透明水彩

東京港から最初に目にする隅田川、透かして見える勝鬨橋と重ねてみればアーチ橋の連続。ちょっと外側に傾けたアーチと連続するV字形橋脚が現代の技術を表しているようだ。

無名橋では工事者にとっては不自由きわまりない。そこでつけられている名称は「仮称・隅田川橋りょう」。

・・・・・

 その後一般公募で「築地橋」と決まった・・・と記憶しているのだが・・・定かでない。秋になって浜離宮恩賜庭園のきばなコスモスを見に行った折に気に掛かっていたこの橋の近くまで足を伸ばした。

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 2014.9.13 鉛筆・透明水彩

 隅田川の上流から数えて「26番目の橋」が、見えるはず・・・と、将軍様のお上がり場から東京湾を覗いてみた。
汐入の庭園ではあるが防災のために高い擁壁に囲まれている。その壁越しに建設工事中の橋は見えた。だが自慢の?橋脚は残念ながら見られなかった。

浜離宮


 高度成長期に大量の残廃物処理が東京湾に進出し、ゴミの島を造ってしまった。そのため江戸城の「出城」でもあったかつての徳川家の庭園「浜離宮恩賜庭園」の前の現状は正式には海ではない。本来の隅田川は佃島までが妥当なところだろうが、そこからなんと3kmほども延長されて、この公園の目の前が河口となっている。しかし公園を囲む2本の川(築地川・汐留川)を高潮から守る堤が障害となって対岸は望めず、遥か彼方に東京ベイブリッジが・・・さらに広い河口を予感させてくれる。

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将軍お上がり場から東京湾を望む 遠方はベイブリッジ
2006.9.21 鉛筆・透明水彩

 この「浜離宮恩賜庭園」は潮入の池と二つの鴨場を今に伝える珍しい庭園だ。 詳細はこちらからどうぞ。

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Mozilla, Chrome, Opera & I.E. に対応(20150123)

参考文献:
 「江戸切絵図 今昔散歩」 佐々悦久・野村秀夫・菊池明 著
 「家康はなぜ江戸を選んだか」 岡野友彦 著
 「年表・隅田川」 真泉充隆 著


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