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20201101

興福寺・三条通り・奈良町(元興寺)


興福寺

この寺はなつかしい・・・はるか半世紀、否それ以上の年月が経っての再訪である!

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猿沢池と興福寺 2019.03.30 鉛筆・水彩

懐かしいというわけは中学生時代の修学旅行に来てからだということが理由。
当時の思い出といっても就寝時の枕投げぐらいで、ほとんど忘れてしまっているが、この猿沢池だけはよく覚えている・・・だが、当時の周辺は荒れ放題でこの池もたんなる溜め池程度の感覚である。

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興福寺への大階段 2019.03.30 鉛筆・水彩

当時の旅館を思い出しながら探してみたが、当然現代風に様変わり! モダーンなホテルに変貌していた。(この右側の建物かな?)
しかしこの大きな階段! 記憶では興福寺境内全体が荒れ地で、そのまま猿沢池にダラダラとした坂で、接していた記憶がある・・・

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東金堂と五重塔 2019.03.30 鉛筆・水彩

この寺の当時の印象は「廃寺」か? なにしろ周りの柵・門はなく公園?否、砂埃の舞う空き地の印象。中には腐りかけたこの二つの建物だけだったと記憶する。現在はこの建物を囲った柵で拝観料を払わないと近付けない・・・
しかし、この「東金堂」とはどうしたものか?・・・ その後、興福寺の歴史を調べてわかった! 奈良時代 (710-784 天平時代) には四大寺、平安時代には七大寺に数えられ、大和国の荘園ほとんどを領し事実上の国主だったとは!  そのためか?度々の焼失と再建を繰り返し明治以降は見向きもされない公園となってしまった、その姿だったのだ!

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金堂と並ぶ高い五重塔 2019.03.30 鉛筆・水彩

京都東寺の五重塔に次ぐ高さはこの地のシンボル。かつての大伽藍を偲ばせるが・・・

興福寺伽藍配置復元図
(中金堂完成に続き講堂も再建着手 2019年現在)

左真横には昨年復元完成したという「中金堂」が異彩を放つ。絢爛豪華な往時の色彩で鎮座する姿は眩しくてスケッチを逃した!その眩しい「中金堂」を南北中心軸にして猿沢の直前?から「南大門」―「中門」―「中金堂」―「講堂」と一直線に並び、東の「東金堂」と対をなす西の「西金堂」その他の建物も計画されているという。
興福寺の仏像というと顔が三つ、手が六本の阿修羅像がまず浮かぶ。その他にどれほどの収納する仏があるのだろう? 残された仏像を収蔵するために、かつてあった「食堂[じきどう]」の上に鉄筋コンクリートの収納庫(国宝館)を建設、収納している。薬師寺の「東塔」から金堂─西塔─講堂─食堂と復興してきたことが刺激になって、箱物作りにご執心なのか? その薬師寺は別ページからどうぞ・・・

三条通り

奈良の観光客の主要な動線道路は「三条通り」、平城京の「三条大路」に相当するが道幅は同じかは不明。猿沢池に出て、春日大社に向かう参道だ。
平城京のメインストリート「朱雀大路」は羅城門から平城宮に向かう南北に通る大路だが、平城宮朱雀門から南に一条下り、東西に走る通りが「三条通り」である。この通りは平城京復元図を作成中に気づいた事だが、藤原氏にとっては特別な通りだということ。
平城京は「左京」と「右京」だけでいいのになぜか「外京」という出っ張りがある。これはまさに藤原氏の都で、三条大路から見たら正面に藤原氏を祀る「春日大社」、そして猿沢の池を挟んで左右に「元興寺」「興福寺」を配置している。鳥瞰してみると天皇を操る藤原氏の姿が浮かんでくる。

高札場 と 里程元標

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三条通りの高札場 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

道に埋め込まれた里程元標

猿沢池の近くには立派な「高札場」がある。「御触書」を庶民に周知させる江戸時代のものを復元したものだろう。
左側に建つ木柱には「奈良県里程元標」と書かれており、明治になって各府県に設置されたものの復元だという。その道路の近くに埋め込まれた金属プレートに、本来あった場所を示していた。

江戸や明治の制度がどうのこうのと観光客には目新しいが、この町にははるかに古い歴史が隠されている・・・
それを探してみる朝散歩だ。


率川(いさがわ)地蔵尊

一昨日、猿沢池を巡り歩いて気になる不思議なものを発見していた!
猿沢池を歩くと背景の興福寺・五重塔が見事で、その道の反対側には注意がいかない。そこに見つけた気になるもの・・・今回の朝散歩の動機です。

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三条通りの高札場 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

猿沢池の南から西に回り込むように、空堀の川?がある。その川に架かる石橋を渡ると、その真下に赤い涎掛けを着けたお地蔵さんの集団が石船に乗っているのだ。 なんだこれ!!!
わきの石段をつたって下りると湿った川底だが流れる水はなく、清潔なので下水路でもなさそう。
お地蔵さんが一杯集まっていると昔行ったことのある化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)を思い出す。
しかしこの川の名前(いさがわ)の不思議さとこの地蔵さんを舟に乗せて旅立たせる演出。新発見ばかりだ。 


ならまちを中心として

ここでこの空堀状態の川について説明しておく。
率川(いさがわ)・簡単に読める文字ではないが、平城京の東端にある「春日神社」の背景となる「春日山」を源流として平城京を横断する川。その流れの中途にある池が「猿沢池」で、現在はその池から先は町の中を暗渠で地上には見えない。この橋の架かる空堀川が率川本流か?は、不明だがちょっと広げてマップで調べてみたのが下の地図である。

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右京・左京で構成される平城京の付属部分(外京)の一部

この地図で猿沢池の縁を巡っている空堀の川(率川)の様子が分かる。これは猿沢池が大水の時に溢れた水を受け止める川だと推察できる。現在はこの池以降の街中を流れる川は暗渠となり曲がりくねった水路となっているが、かつての平城京は瀬戸内海との重要な交通水路だったか?と地蔵尊の乗っていた舟に触発され、想像が広がり楽しい。

●この辺りは平城京が構成される[右京]と[左京]の左側に膨れた地域で[外京(げきょう)]と呼ばれた地域の一部であり、有名な「東大寺」はさらにその外側に位置する。なぜ、端正(シンメトリー)に計画されると想像される平城京に東側に広がった地域があるのか?これは当時の天皇を支える長屋王藤原不比等の拝領した屋敷を平城宮に見立てたもう一つの隠された平城京なのだ。春日山の裾野に広がる地域に、平城京に連なる外京をこちらから想像してもう一度みてください。

●平城京の区画された街並みと当時の寺が所有する敷地との関係がここにマウスを乗せると地図で理解できます。さらに西に500mほどいったところが四坊大路でそこまでが外京の範囲です。 現在の地図と見比べてみてください。

●飛鳥時代の日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、新築移転されたのが始まりとされる「元興寺(がんごうじ)」の栄枯盛衰の姿が見られる。多くの寺は平安京に遷都後、ほとんどの建物は焼失、再建をくり返したが、元興寺は長い間に忘れられ、民家転用という侵食で現在は通称「ならまち」と呼ばれる地域に変わってしまった。(その時は平仮名表記が通常)

●さらに日本古道の一つ「上ツ道(かみつみち)」が堂々と「率川地蔵尊」の橋から始まると地域では云われている。しかしこの古道は平城京遷都以前の「飛鳥京」と結ぶ三古道「下ツ道」「中ツ道」「下ツ道」の一つで平城京の各々「朱雀大路」「東四坊大路」外京の東端「七坊大路」の延長に続く道である。「上ツ道」は近世では「上街道」、現在では「伊勢街道」「長谷街道」などとよばれ、古寺「元興寺」境内から始まる道となっている。


かつての元興寺の境内(ならまち)はどうなっているの?

「率川地蔵尊」の橋(島嘉橋[しまかばし])を渡り、上ツ道を歩いてみると町屋の民家が軒を連ねている。伊勢街道と呼ばれるには道幅は狭く、至るところで雁行・交叉する道で、計画を無視した街並みだということは想像できるが民家のオンパレードに期待!。

猿田彦神社(道祖神)

平城京時代の計画道路単位、一町(約130mか?)程で交差点に至りその場所に朱塗りの神社

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道祖神社 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

説明板には元興寺境内に初めて作られた奈良市の神社で云々・・・道祖神・賽神として名高いという。鳥居の扁額には「道祖神」とあるのはこの町の守護神を意味しているのか?
掲げられた行灯に「奈良町通り・今御門商店街」「上ツ道 伊勢街道」とある。
南にさらに進んでいくと縦格子を道に面した民家が連なり、元興寺のあったあたりに来てもその面影はなく通り過ぎてしまった。

漢方薬局・菊岡

率川からほぼ三町ほど来たところ・・・多分かつての「四条大路」あたりだろうか?丁字路となって直進は終了・・・?

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道を阻む道祖神と漢方やさん 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

「総本家きくをか」と刻まれた石柱を護るかのように三体のお地蔵さんがこの町を護っている風情だ。お地蔵さんの背景にはこんな書込の御札が二枚も 「 オ ン カ カ カ ビ サ ン マ エ イ ソ ワ カ
チンプンカンプンで後日調べたら「類いまれな尊いお地蔵さま」の意で手を合わせ繰り返し唱えるのだそうだ。
それにしても気になる飾り・・・店頭に飾られているボール状のものが大きさの順に下に垂れている・・・それが申し合わせたかのように家々の入口に飾られている。
突き当たりの地蔵さんの裏に回って謎が解けた!

ならまち資料館

かなり狭い路地に入っていく。突然大きなぬいぐるみのぶら下がった黒塗りの木戸が出現。牢屋かとみまがう太い縦格子を袖にした棟門。

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狭い道路からは全容がつかめない資料館 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

かなり狭い路地に踏み込んでいく・・・
扁額には「吉祥堂」と掲げる資料館とはなんだろう?館長の自宅を改造し、奈良町の保存を目的として開館された私設資料館とのこと。その展示物の一つ「吉祥天像」を示すものらしい(開館前で未確認)。
下記説明が掲げられていた。

旧元興寺の本堂がここに建っていましたが、1451年の戦火により焼却いたしました。
その跡地に人々が住みつき「奈良町」になりました。
町の住民は町を守るためにこの様な木戸を造り通行人を改めました。これが奈良町木戸です。

資料館

霊験あらたかな庚申信仰のお守り

身代わり申

庚申さんの身代わり申

奈良町(ならまち)の家の軒先に赤いぬいぐるみがぶら下がっている。これは、「庚申(こうしん)さん」のお使いの申をかたどったお守りで、魔除けを意味し、家の中に災難が入ってこないように吊るしている。災いを代わりに受けてくださることから「身代り申」とよばれている。 また、背中に願い事を書いてつるす「願い申」ともいう。
「庚申さん」とよばれる青面(しょうめん)金剛像は、西新屋町の当館にまつられている。中国の道教の教えを説く庚申信仰は、江戸時代に民間信仰として庶民にひろがった。 言い伝えによると、人の体の中に三尸(さんし)の虫がいて、庚申の日の夜に人が寝ているあいだに体から抜けだし、天帝にその人の悪事を告げにいくという。 その報告により寿命が決まるというので、人々は六十日に一度回ってくる庚申の日は、寝ずに「庚申さん」を供養したという。 徹夜の習わしはなくなったが、身代り申をつるし、庚申さんをまつる信仰は今もこの町に息づいている。

出典:奈良町資料館 http://naramachi.co.jp/migawarisaru


 奈良町は約 200 町からなり、各町の境には木戸が設けられ、各町に会所があり、そこでの寄合により町掟が定められていた。このことで、町のまとまりが形成されるとともに、統一感のある町家の連なる町並みの形成が促されてきた。近世の絵図によると、奈良町は北、西、南の三方が柵で囲われ、入口となる 11 か所に定杭が設けられていた。木戸の位置も判明するという。
 近世、奈良町は、城下町建設等の大規模な都市改造を受けなかった。その結果、中世後期の都市形態の要素を数多く受け継いできた。近代以降も、市街地の変化は緩やかで、高度経済成長期を迎えるまで大きな都市開発のないまま存続してきた。現在も近世以来の町割が継承され、町ごとの自治の仕組みが受け継がれている。

出典:http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1424917042562/files/rekimati2-4.pdf

ならまちの民家

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 2019.03.31 鉛筆・透明水彩

大部分は狭い道路の両端に厨子(ついし)二階、切り妻造り、桟瓦葺き、平入の町屋が連続して並ぶ。
正面一階は木格子、二階は漆喰塗籠、格子より古いタイプの表構えとして、「あげ床几(しょうぎ)」があった。あげ床几は下ろすと商品の陳列棚となり、まさに商家の構えである。
正面に付く庇は、室内に差し込む日照を調節、雨から護るだけでなく、軒下に身代り申を吊す家も多く、奈良独特の風情ある町並みをつくりだしている。


奈良を去るにあたり一つ留めておくことがある。夕餉の居酒屋で知った奈良の地酒がうまい事。利き酒で全てクリアできなかったが、後で知った奈良の酒造の歴史。
酒造は記紀以前から行われているが、奈良時代には平城宮に造酒司が設けられて盛んに行われており、井戸や甕を備えた建物跡が発掘調査で確認されているという。平安時代末期には「元興寺酒座」の記録があり、元興寺付近で酒を販売した記録。中世には、奈良の酒は寺院を中心として造られたため僧坊酒と呼ばれ、名酒として知られていたという。 安土桃山時代、これまでの濁酒にかわって諸白造りの技術を開発したのが奈良の僧坊酒であり、清酒醸造の基礎を築いたと聞く。奈良の歴史は目や耳・足だけでなく口・腹でも実感した次第。奈良漬けは副産物なのだ。


参考文献:
 


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