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20201103

奈良・はじめに


口  上

 このスケッチブックは天下の劔の箱根の山を越える機会がなかった(笑) しかしその時がきた。
この時期(2019春)の奈良は東大寺二月堂の修二会という行事が有名だがそれは2月のこと、それに対して3月に行われる薬師寺の修二会(花会式)の招待状を入手したので出かけてみた。

歩いたルート
    ↓(京都経由、近鉄奈良駅着)
[1] - 正倉院
    ↓
[2] - 二月堂
    ↓
[3] - 興福寺
    ↓(近鉄大和西大寺駅経由、尼ヶ辻駅着)
[4] - 唐招提寺
    ↓
[5] - 薬師寺
    ↓(復路 / 近鉄奈良駅着)
[6] - 奈良町 (元興寺跡の街並み)
    ↓
    ↓
[7] - 京都/醍醐寺(帰路立ち寄り)


平城京について

中学時代の修学旅行での知識しかない日本の古都・奈良の街/歴史を調べてみた。飛鳥時代や都市計画的に策定された[都/藤原京]は別の機会として、今回は藤原京から京都に遷都されるまでの中継ぎの[都/平城京]についてである。
都市の構成は一町を130mほど、4町を1単位として縦横に大路を配している。それをGoogleマップに落としてみた。

京都から奈良に向かう近鉄は奈良に近づくと、かつての都市の遺構を横断して突っ走る! それが平城宮と朱雀門を復元したものだとあとで知った。かつての平城京は現代の賑わう奈良とはずれているのだ!

この復元マップで最初の都市像を理解したい。当時の国を司る帝としての天皇と中臣氏(後の藤原氏)一族が平城宮と丘陵に配置された春日神社としての見事さ!
しかし街の構成から考察すると左京・右京からなる[平城宮]と、外京の中央通り(三条大路)の正面に構える[春日大社]の街という二つの街の合成された都だと理解できる。

 春日大社は創建が中臣氏とその派生である藤原氏の氏神を祀る社であること。聖武天皇の母は不比等の娘であること。天平のこの時代に現在の令和コロナ禍と同じように感染症に悩まされたその時代と東大寺の創建。
(藤原氏の高みから睨む構成には権力の実態をのぞかせる)

(右京と左京が対照となっていても外京が中心となっている賑わいの不思議)

遷都の経過

飛鳥時代からこの地に遷都し移されてきた四大寺(大安寺[旧大官大寺]・元興寺[旧飛鳥寺]・興福寺[旧厩坂寺]・薬師寺)と、新たに追加して建てられた三寺(東大寺・西大寺・唐招提寺)合わせて「南都七大寺」とした寺を当時の規模で書き込んでみた。
これほどの規模の都市をたったの一世紀も機能することもなく平安京に遷都され、その後の七大寺のほとんどは見るも無惨!絶大な権力が仇になりことごとく破壊され、その後に復興されれば幸いという歴史が続いた。
特に興味あることは「元興寺(がんごうじ)」で、飛鳥時代に建立された日本最古の法興寺(現・飛鳥寺)が移転した寺院である。辛うじて残った建物は東大寺・西大寺等の末寺となり、17〜18haもある境内は尽く宅地化され「奈良町」と変わっている。戦災にも遭わない奈良だから貴重な民家の集積が今も残る興味ある地区となっている。


(参考:奈良文化財研究所/wikipedia)


参考文献:
 


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